脳は生き残りのために活躍する

先だって、ブログに取り上げさせていただきましたZ-health。


脳機能特性をというところを細かく専門用語を並べて語るも、
施術者仲間からはピンと来ないというつれない反応でした。 ^-^;


私自身、脳機能の特性をというところでは、
フェルデンクライスメソッドの脳のプログラミングを押すボディワークや
アプライドキネシオロジー等の神経系を通じた施術を学んできたおかげで、
その魅力を感じているのですが、
脳機能のレンズを通して動きを変えるというアプローチを
どういうものかということを伝えることまでは思いが至りません。


相当に解剖生理学的視野がなければ、語ることができないのです。
残念ながら、私にはそこが十分ではありません。





とりあえずZ-healthとはイメージが異なりますが、
私の言葉でどのように脳と動きとの関係性を見ているのかを語りたいと思います。
m__m




5分の使い方で人生は変わる


こちらの本を読んでいたら、
興味深いエピソードが紹介されていた。


この本の著者の小山氏。
若かりしときに事業で失敗して路上生活をしたことがあるそうです。
そのときの体験。


今日明日を生きるために食事を手に入れるなどのことが関心事となり、
早々に自身の身を清潔にすることは忘れてしまっていました。
公園の水道で体を洗うこともできたはずですが、
脳はすでに体を清潔に保たなくても生きていけることを知り、
そちらへ関心を保つ必要がなくなっていった。


生き残るためには、
身奇麗にするより
他に緊急で必要なことがある。
だったら、そちらへと関心を寄せて対処していったほうがいい。


すると脳はいつしか風呂に入らなくても平気になってくるどころか、
風呂にはいることが億劫どころか苦痛に思えるようになってしまう。




今の自分にとって大事なものは何かを脳は基準を設け判断している。




そしてそのフィルターから、
今を生き残ることが大事だ。


生き残るために優先順位が低いことに関心を寄せることは、
ネガティブな結果の訪れへと近づいたことと本能的に悟り、
そうするのに抵抗しようとブレーキを踏む行動に出ていく。


人に対して未来に向けて何かをおこなうことの大切さを説くこともできるが、
現状の土台が崩れそうであれば、
脳は躊躇なくブレーキを踏む。



このような脳の生存確保のための機能があることを、
念頭にいれて行動をつくり上げるようにしているでしょうか。


現状の差し迫った二者択一の選択肢があるならば、
基本安全策を選択するようにできているものです。




たとえばですが。。。
体の使い方について学んだ時のこと。


写真に立位姿勢を撮影してビフォア・アフターを客観視した。
立つという体の使い方を新たに学んだときのリアクションで、
「これは、画期的な身体機能を活用できる所作ですね!」
と満面の笑みを浮かべたとしましょう。



それは他者から得たアドバイスを元に、
自分で動きを試行した結果に得られた戦利品のようなものです。


ですが今までの自身が繰り返してきた姿勢。
それも、体の歪みを人は誰しも持っている。
その歪みを強力に補正するよう工夫を重ね続けて得た姿勢です。


ビフォア・アフターのビフォアの姿勢が
即座に過去のものとして葬られるものでしょうか?



それは、難しいものだということは察することができるでしょう。


いったん骨盤部分が無意識のうちに左右どちらかか両方かの腸骨が前傾しだしたなどの歪みが生じれば、
相当な質の良いエクササイズを取り入れていたり、
身体感覚に鋭敏でかつ骨格でバランスを再構成する感覚に優れた者以外は、
気づかないうちに歪みを残したまま体の傾斜をただ支えるというだけの補正で対処するようになります。


それはどういうことかといえば、
たとえば家の土台が軟弱だったり老朽化した立て付けが悪い家であったりすれば、
傾斜しだすこともあるでしょう。
とりあえずあなたならば家が傾斜しだしたらどうしますか?
私ならば、倒壊を免れるために有無も言わさぬうちに血相を変えてつっかえ棒を探し出しますね。
悠長に「あぁ〜、家が傾いて倒れていくぅ」と眺めているようなことはしません。


つねに倒壊の恐れを感じ続けているのです。
それが歪んだ状態の骨格を持っているということなのです。


今も刻々と歪みの状態は新たな局面をむかえるよう変化が続き、
新たな支え棒を必要としているのです。


歪みが歪みを呼び込みさらに複雑な筋骨格系のアンバランス方向へ向かいだして、
現状維持をすることが困難になる仕組みです。


回り始めたマイナスのスパイラルが広がるにしても、
それはしかたがないのです。


運動系の身体操作という野生で生き残るには緊急かつ必須の事項だと、
私たちの本能、そして脳が高い優先順位だとして判断していますから。



体のバランスを根本的かつ深刻に見失ったようなときには、
相当念入りに体の傾斜が複雑に生じてそれを支え続ける体になっています。
一度、そこにまで達すると、自力で体の歪みを改善させて体調を良化させることが難しくなってきます。
自分の脳が良かれと判断して、
傾斜した体を支え続けるための部材をしこりとして用意する緊急避難的措置を行うのですから。


その脳の得た生存確保の基準は相当に高いものですから、
その高さを超えるものは容易には現れることはないはず。。。


ただ、、、
本当の体の理想形は、
体の深部にしこりを配置させて歪みを補正する状態ではありません。
不用意なしこりをはびこらせれば、多くのデメリットが生じます。
関節の可動域を減少させていき、
体内の体液の流動性を停滞させたり、
神経を圧迫させたり内臓諸器官に負担を強いてみたり。。。


ですが、それらが生じてしまったとしても、
体が支えを失って傾斜し動けなくなるより、
ずっとマシな快適な状況なのです。


そのことを把握しておけば、
なぜ、自分が新たな体の使い方を覚えようと、
何十回も何百回も慣れるまで体にいいというエクササイズをしてみても、
思うように改善できないのか?


その理由がわかってくるでしょう。



たとえば、私が自分自身によくやる手ですが、
身体操作上の不備や未熟を感じた部分を得て、
新たな身体操作法を身につけるようなときは。



自力で体の動きを紙に図示したりメンタルビジョンにシミュレートさせていきます。
徹底的に繰り返しアイデアを出し、
そのアイデアに加筆訂正を加えて、
最終的な見方を深めていきます。


そのような絵を脳内に腑に落ちるまで描ききるだけです。


そして「新たなイメージ通り動くのが当然だ」と感じ始めれば。
つまり生き残るためにはこちらの身体操作にすべきだと感じた。
すると、すでに脳内の身体操作ビジョンの基準は
過去のものから新たなものへと書き換えられていくのでしょう。


その場合には、不思議に思われますが、
体は勝手に新たなビジョン通りに動き、
練習などは一切不要ですね。
新たなビジョンに印象の楔が深く突き刺されば、
過去の不適切な身体操作には逆行することはない。



身体操作方法を教えてくれる先生や師範のような他者から教えられたことは、
先生が言わんとしている言葉が伝わるかどうかの適切さは一般的に十分でも、
先生と生徒が共通言語で話ができていないときも多い。
先生の言葉は意味内容は簡略化されていたり、
ねじ曲がっていることが多いように思います。
それ以前に、先生が説明をしても身体操作上、
体ができていない人には、
自身の体で容易に言われたことは再現できず。
そんな自身にフィットせぬものなどが容易に脳のなかで取り入れるべき優先順位が高いものとして、
慣れ親しんだ以前の身体操作法を捨ててしまうようなことは起こりはしないのです。
そのような点を理解することができていれば、
本当に身につけるべきものかどうかを判断を



結果として腑に落ちてはいませんから、
脳内ではそれに魅力を感じきれません。


先生の解説等を元にして内容を咀嚼しないかぎりは
自分のものにしたくもないよそ者の不自由なツールでしかないのです。
脳内にある過去の動きの基準を引き下ろすべきだという信念は芽生えていないならば、
一時的には講習会等で得た動きができていたとしても、
やがて過去の動き方に舞い戻るでしょう。


実際のところ、
新たな動き方へ変化させるという場合には不測の事態に陥り、
ダメージを身体へ与えるリスクが想像以上に大きくあるものです。
そのようなリスクテイクを無計画で不用意にしていくならば、
早々にミスの連続が祟ります。
そこへの対処法や改善法を熟知しておらねば、
体は崩壊した状態へ流れ着くでしょう。


そのようなリスクテイクを、脳は好まずに、
今までの生き抜けてきた実績のある過去の使い方に固執する。
それが得策と考えているのです。



動き方を改善させるという内容は以上のような性質があるようです。



ただ逆に考えれば、脳の特性をよく把握していけば、
脳に気に入られる手順や手はずで、
うまく改善させるプログラムを書き込むことができるものですよね。



そのように考えてみると、
脳機能を把握して作り上げていくムーブメントアプローチは、
魅力的なものにもなりそうですね。