施術者がお客様へ接するときの気持ちと姿勢が課題

施術のときのお客様への接し方が心に刺さるときって、あるんですね。



私が常々施術のこころのよりどころとさせていただいている先生がいます。
いまは遠方でお住まいで活躍なさっておられます。

最後にお会いしたのは3年前となったでしょうか。




そのときの話をさせていただければと思います。

その先生は、ネット検索を駆使して自分の脚でさまざまな先生の所へ出かけ施術法を体験していきます。
今の流行を走る先生のところもありますが、
ネットでの露出がほとんどないレアで卓越した技を持つ先生を探し当てる検索の天才。
情報を積極的に足で稼ぎ骨董屋が目利きの眼力を養うかのような感性を磨かれています。
知見を広くして、そこから自身の進む成長へと向かう道を厳選しておられるのですね。

私は本から情報を得ることが多く「鈴木君、もっと現地に出向いて身体で施術を感じてごらん。本はその後でもいいのよ」といわれてました。
とっかかりのいい先生と、本で読みこんで調べに調べてから重い腰をあげる私との違いです。
先生にしてみれば私の遅々としたペースはもどかしかったことでしょう。
この先生がいうことが実は正解です。

本になるにはその施術技術が出来上がるまで、
出版になるまで、
私がその出版物に気づいて手に取るまで、
となると、優にその情報は3年遅れになる計算です。
それよりも本になる前の段階で情報をキャッチして行動を起こす機動力があれば、
私より3年~6年ほど早く、その施術を熟知し、興味が出るレベルの施術技術は習いに行って精通しているわけです。
それで英語が堪能な先生で、調べる範囲は日本にとどまらず世界に目が向けられている。
そうなると私が海外の情報をセミナー等で得る7年ほども前に取り組まれている。

「どこそこの施術家は、どこそこがいいが、どこそこがいまいち」とか。
鋭い感性で集めた屈託ない評を聞かせてくれました。
貴重そのものの、レア情報です。
独自の怖いほど鋭利な目線で、施術家たちの人格、技、その他を含め観ています。
その眼で私はどう映っているのだろうかと思うと、正直、取り繕う間もなく俎板の鯉になるしかない身でした。



私がこちらの先生を尊敬しているのは、
そういった施術技術の先取りをなさっておられるからだけではありません。

霊性の高さが規格外」という表現で伝えることは難しいと思いますが、
先生のピュアでやさしさのあふれたお人柄を感じ、
その背後に伸びる明るく光るものをみたときには。




先生にお会いできた最後は、コロナの影響前でした。
そのときに思いもよらないことを語ってくれました。



あらたに先生が足を運んで受けた施術ですが、
そこでいまだかつてないほどの体験をしたそうです。

差しさわりが出てはなりませんのでどのようなボディワークかは控えさせていただきますが、
これほどまで丁寧で思いやりを持って人に接してもらったことがあっただろうかと思うほど。

一貫したセッション中の空気感は、
かつてないほど人に敬意と気づかいの最上をもって接していただいていると感じたそうです。

そのセッションを受ける途中で、とめどもなく涙が流れ落ちたといいます。
これほどの感動ははじめてといえるほどなのか、先生の声が震えています。


私が「霊性の高さが規格外」と感じる先生だからこそ、
同様に霊性の高さを持った人格や技術を持つ先生に魅せられたのでしょうか。


先生は、これを「待ってました!」という思いで感動の施術法を学ぼうと考えておられましたが、
時期が合わず先生が遠方へ転居するときにかさなり、
講習の受講は断念なさったと言う経緯があります。





ここで少し私の話を挟ませていただきます。。
私が施術を始めた当初の目的は、とにかく施術で腰椎椎間板ヘルニアを改善がクリアできることでした。

その思いが強く、一般的な施術の路線で学んできたつもりでしたが、
「あなたの体の部品はどのようなものですか?」という見方でした。
患部を確認して、そこを気にして効果的な対処法を探り出している。

お客様が整体院に通う理由としては当然の期待する対応でしょうか。
お体の主訴、腰が痛い!ならばその腰部の痛みを拭うように対処し、
肩が凝ってるといわれれば、背中や頭皮がカチカチで緩めますよと。

もちろん先生は身体の部品の劣化した部分を書き換える作業を否定しません。
ただしそれだけでは欠けているんだよということを、意図的かどうかはさておき、伝えていただきました。

施術者が人としてお客様に対してやさしさをもって敬いながら接する姿勢が極上であれば、
接せられた者はきれいにそれを受け取ったときに感じる経験から。
そこから、いったいなにが受け取れるかがわかったとき。


その衝撃は途方もなく、ココロを揺さぶり、
施術者とお客様の貴重な時の共有を感じさせてくれます。
そこから得られたものの価値は得た者にしかわからない。

ただ。
その話を聞いたとき、私には衝動的に目の前の人の尊い生命エネルギーに触れ、
その眼ををしっかり見て向き合って語り合う施術だと直感したセッションを受けたことがあるだろうか。
またはさせていただいたことがあっただろうか。


有名無名の先生をあわせて何千ものセッションを体験された先生が。
どうにかその施術法の講習を受けられないかと、日程を模索しつつ、
うまくいかないことを嘆き惜しむ姿が、なにかを表しておりました。

一生にわたり忘れられない感動の経験をお客様に差し出してみたい。
自分が体験したことを、みずからの手で体験してもらいたい!
おそらくですが、そう考えていたようです。


仏性をもった人が人に接するときのやさしさです。
まさに先生にふさわしいと感じます。
そのようなことを、いまもときどき思い出します。

この話を伺ったのが先生との最後になりました。


話を伺って、
勝手に私が考えたことは
「最終課題を出していかれた」のだと思えたのです。


だから部品としての人体を知ることを検証し続けて、
解剖生理学上のとらえと施術技術のベースができたとき。

私には、先生がだした取り組みたい次の課題があるのです。

日々の施術に追われ余裕なく解剖学的な見立てを調べ続けてきた私に、
「鈴木君、自他の霊性を高めるほどの施術への取り組みも、併せてやりなさい」と先生ならいわれそうです。


いまだに、そこまでは手が回っていないのですが、
ですがコロナ禍の期間中が、
日頃の体力消耗戦的な施術をせずに勉強に打ち込めたときとなり、
必須課題の解剖学的な部品を熟知する作業が想定外と言えるほど進みました。


そうなった余裕ができて、はじめてもうひとつの課題に取り組む気になりました。


先生にメールはさせていただいたのですが、返信がなくて。
コロナの世界的な流行と人への命に係わる健康被害もあり心配しております。

ですがもし次にお会いできる機会を得られたら、
そのときに課題に取り組みだした姿を見ていただければと願っています。

嘘やごまかしが一切利かない先生ですから、第一声でどういわれるのか。
その言葉を想像して、頑張っていこうと思ってます。