少し手荒い立ち方のチェック


立ち方を伝えるとき。


基本的に武術や同業などで相応に経験がある方と話をしているとき。
スカイフックの話が出た。


『首の状態はこれでいいのだろうか?』
と質問を受けました。
しっかりとアレクサンダーテクニークなどの書籍を読破なされている方。
大変卒のない立ち方です。


一般の方ならば全く問題のない『OKです!』というところ。
立位の横・正面写真を撮っても首がすっと伸び、
大変美しい。


でも同業者でかつ武道を嗜まれている方にはもう一工夫必要です。


彼女としても正しい立ち方ができるようになり
『どうだ〜っ。にこっ^^)v!』という気分です。


観た上での以前の彼女の首と現在との状態では、
実に天と地の差です。
驚くほどの進歩。
『すばらしい!』
と感情がこもった言葉を投げかけることができました。


『でも、もう一つのポイントがあると思います。』


みぞおちの部分にほんとうに軽く寸勁で押しました。
すると瞬間呼吸が「うっ」と止まる感覚になります。
その呼吸がしにくくなる感覚を体験してもらい、
『なぜそうなるのでしょうか?』と質問をしました。


彼女曰く、
『だってみぞおちは急所だから、当然だと思うんだけど。。。』


私、
『みぞおちや喉などは急所だからですよね。
その通りです!
ではもし急所を今と同じようにぽんっと押されても、
呼吸に全く影響が出ないようになるとしたらどう?』


『・・・・』


怪訝そうです。^^1


そこで首のスカイフックのときの意識を置き換えてもらいました。
教科書では天からロープが釣り下がってきて、
頭頂部分に引っかけて持ち上げられるイメージと指示しています。
ですから彼女はその通りにしていました。


それを今度は逆にまずは天のロープなど一切忘れてもらいました。
頭の重さ、首の筋肉で垂直に首を縮めてと指示し、
私の手で頭部の位置と力のベクトルを正確に調整。
その状態はなれないものですから30秒ほどしていると、
首が吊るような感じがしてきました。
それを90秒程度保持してもらいます。

そして首が短く詰まった感覚がある、
その状態をカメラでパチリ。
記録を取ります。




それから簡単な説明をしました。
『スプリングが短くなったとき、
バネの力で伸びようとする。
ボールを高いところから下に落とせば、
バウンドして上に跳ね上がりますよね』


『・・・そうですよね』


『ではあなたの首はバネの力が効いたスプリング、
そして頭は地面に落とされて跳ね上がるボールです。
頭が下に落とされるから上にバウンドするという力を、
首の内部(芯)で捉えてみてください。』


すると勘の良いもので、
『あっ!!
頭が上に跳ね上がっている感じがします。
スカイフックを意識していないのに、
頭頂部が上に引っ張り上げられている!』


私は、
『頭を落とし続けて!
落ちる感覚と上に跳ね上がる感覚が混在しているのに注意を向けて』


これもすっと体で理解してくれました。


実はこのときに寸勁でぽーんと、
先程の倍の力をかけて押します。
ですが彼女は押されたことも、
ぴんとこない。
呼吸が乱れていない。
もちろん痛くもない。


彼女の体感では、
「先ほど押されたときの半分も力を入れていないのでしょう?」
とのことです。
「倍の力ですよ」、
というと不思議がっておりました。


そして先ほどデジカメで撮った窮屈だ〜って思っていた写真を観ると、
まったく身長が低くなっていないことも見てもらいました。
僕が微調整して首の垂直にしていたのでむしろ高いくらい。

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スカイフックをするとき。
ただただ天に首を伸ばそうとすると、
胆力が減少してしまい急所のガードができなくなるようです。


自然に絶妙な釣り合いをとれた位置を見つけることができれば、
今回の私のいったんスカイフックを忘れてくださいというのは不要です。
だがこの絶妙な釣り合いが難しい。


一見すると最初にスカイフックをしたときと、
頭部の落下するバウンドを利用してスカイフックしたとき。
両者の写真にはそう違いを見つけられないでしょう。


ですが前者では首の不要な緊張を強いてしまいます。
それにより喉がつまりみぞおちが弱くなった。
それに対し後者では喉の気が強まる感じを受けて、
リンクしたみぞおちも充実してくる。
そしてもちろんこれは呼吸の質に関係してくる。
それに後者の方が胆力を容易に取り出せる。


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注:後者の方が首の垂直性の妙をわからないでやると、
喉が詰まるリスクがあるのでそうとうな方でないと勧めないのです。
それならば前者のスカイフックの方が安全という判断です。

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やり方を踏み込んで試行錯誤してみると、
その教えには前段階のステップがあることに気付くことがあります。


こうするといいという結果のみを端的に語られることが多い。
ですがその端的な教えを作る前段階を読みとばすと、
意味合いや内容が変わったり誤解が生じることもあります。
結果の言葉に縛られすぎることは、
ときとして深みのある思考の妨げになります。


結果も大切。
ですが過程があってこその結果が使えることもあるのでは。


そう思えることが体の運用法だけでなく、
世の中全般にありますよね。