小耳に挟んだ医聖のお話:『島津恂堂』先生

先日、図書館で西郷隆盛について調べ、
書籍『島津一族 無敵を誇った南九州の雄』にも、
語られていることに気づき借りてきました。


島津家は名だたる本家から分家にいたるまで、家系図がかけるような一族なのですね。


西郷隆盛島津斉彬公のところがわかればいいやと思いつつも、
なにげなく昔の他の方々がどれほどの寿命があったものなのか、
寿命が付記されている方々が多かったのでみていきました。


すると『島津恂堂』という医師がおられたとのこと。
江戸時代末期・明治期
文化1(1804)年〜明治5(1872)年■江戸時代末期・明治期の医師


まさに『医は仁術なり』を実践していた藩医であったそうです。



詳しく知りたくて資料を探してみましたが、
書籍『全国の伝承江戸時代人づくり風土記 22』に、数ページ書かれている程度です。



通常、藩医になることで身分が保証されるし、
医療費請求も高額になるからみんななりたい。
そんな藩医になれている島津恂堂。


医は江戸に出て漢方の第一人者として当時名高かい
幕府医官楽春院多紀元堅に医学館で学んだそうです。
自分で野原に出て薬草を見つけそれを持ち帰り育てる。
そして効能を確かめるような研究熱心な職人肌でした。



それなのに、いつも貧乏


体を壊し困るものがくれば、
「ある時払いでいい。病を治すのが先だ


藩医の棒給はしれたもの。
裕福になるわけはありません。


清貧がよいかどうかはあとにしておいて、


とにかく、
病気を治すのが先だから、おいでという。
そのように誰が来ても、
ひとしくおっしゃられるような心の広さ。


自分がたいそうな羽織を来てでかければ、
帰りには寒そうなおじいさんを見つけたからあげちゃった。
あーさむかった。


・・・。


自分が裕福だというわけでもないのだが、
気前よくというよりも慈悲の気持が勝り、
差し出したくなったのでしょうか。


ここまでなれば、
一般人の感覚でははかれません
私には足元にも及ばない
悟りの境地にたどり着いておられます。



医は仁術とは。
人の病を治す医業は、金銭にとらわれず、
儒教の最高道徳である「仁」。
いっさいにたいする思いやりの心をほどこす博愛のてだてである、という意だそうです。



当時は、医術のかたわら儒学を学ぶことがあったようで、
昌平坂学問所海保漁村佐藤一斎らに習う。


数代前から島津塾という儒学を教える私塾を構えて、
恂堂も子弟を教育したそうです。


静岡の沼津藩の藩医であったため、
ご当地では話が伝え聞かれているものと思います。




島津家の本で、
島津家の方々の寿命を見てきたのですが
きっと多くの患者さんや門人に惜しまれ
天寿をまっとうされたお医者様でしょう。


杉田玄白の跡を継いだ杉田玄端という方にも、
お亡くなりになる5日前に一泊の看護をしてもらう。


彼の手土産の梨をもらって汁を吸ったが、実にうまかった、


そのような言葉を書き記しておられます。




アドラー心理学という心理学は、
人が勇気を持って活きるには、
「自分が好き」「他人を信頼できる」「他の人に貢献する」
という3つがそろっていることが必要だといいます。


島津恂堂先生のような方と出会い接すれば、
この「他人を信頼できる」というところの、
信頼の火は生涯消えることがないでしょう。
生きていくいい手本としていたに違いない。