「 身病の要は 四大 と 鬼 と 業 なり 」


真言宗の開祖、空海弘法大師)。
空海は『秘密曼陀羅十住心論』という彼の著述のなかで、
病に犯される要件を次のように分析なさいました。


「 身病の要は 四大 と 鬼 と 業 なり 」


四大」とは、地水火風。
地が、骨や肉。水が、水分。火が体温で風が呼吸のことだそうです。


」とは、鬼のようなこころになること。
妬み、嫉妬、鬼のような残忍なこころを持つことで、病をえることもあるといいます。


」とは、カルマのことです。
カルマとは日ごろしてきたおこないの良し悪し、善行と悪行です。
よい行いをしているようならば病は遠のくのでしょうね。
でも悪い行いをしているようならばその積み重ねから病をえます。


空海は、いいます。
「四大」が病の原因になったときには、医者に診てもらって薬をのみましょうといいます。
「鬼」のこころから病をえたときには、真言をとなえよう。
(いまならカウンセラーとのセッションといわれるところもあるかもしれませんね)
「業」のこころから病をえたときには、過去の行いを懺悔して悔い改めていかなければなりません。



つまり
「四大」から生じた病は、他者の医者や施術者の仕事でも対処できるところもありますが、
「鬼」や「業」から生じた病は、医者や施術者には肩代わりできるものではなくて、
病を得た自分でしか治せないもの。


考えようによっては、自分で治すことができる可能性が高いのが「鬼」や「業」。
「鬼」や「業」により病を生まないようコントロールするのは人生の本業です。



施術をするものも、病の構成を「四大」にばかり目を向け切り取り、
魔法のように病を癒せるといえるものではないことを知りましょう。
病とは、他者の関わりのみで無にできるほど、単純なものではない。
そんなことは当たり前じゃないかといわれるかもしれませんが、
施術をする側の認識やこころの問題から、
「四大」を診ることで病のすべてのかたをつけられると誤解しそうな言葉が聞こえてくるときがあります。


私が思うところでは、
施術は、万能じゃないし、限界が有るものだと考えています。


それを空海は、「鬼」「業」という2つの言葉で表していて。
私には言葉の表現力がたりませんので、
どうしても思考でごたごた説明しようとして、まとまらない。
それがこれほどまでにシンプルかつ印象的な言葉で語る力は。


本当に脱帽します。



「鬼」や「業」については、
自分が持つ意識や認識そして行いが、
自分の思い描く理想の実態と、
どのような誤差があるかに気づけたとき。
自分のなかで生じる「鬼」は退散します。
自分の「業」の行いに愛情が満ちてくる。
そんな目を育てること。



否定的で息苦しくなる側面を煙のように溶かして、
温かい陽の光を浴びてすくすくと生きていこうとする肯定的な自分で、
人生に関わろう。


それがやがて病を遠ざけるのだ。


曇りない視線で空海は、そんなふうにも人を観ておられるように感じます。