昨日のブログ内容の「代償」の至極大切な補足:インナートリップできれば、タダで代償がチャラになる?!

昨日は『代償作用』がプロポーションのアンバランスを闇に隠すとお伝えいたしました。

建築構造体のように物理的な重力を受け、左右シンメトリカルで重心が安定しているのが理想。
ウィトルウイウス的人体が立派なもので、そこに幾多ある人体の機能美が宿ります。

ウィトルウイウス的人体プロポーションから離れる理由は、
先天的遺伝による体の部位の左右の違いもあります。
このときに自分の身体の操作を緻密に計算していくことで、
身体の軟部組織という柔軟組織をしあわせにいかすことが問題のカバーをしてくれる機能向上のノウハウとして、
変化と改善をかなえることもできると信じています。

日常生活により体の使い方の癖がもとでアンバランスなプロポーションを作り続けるということもあります。

利き手、利き足の影響。
〈特に一部の筋肉を使い過ぎさせることによりあたえられた影響が大〉
利き目側による首の捻じれ。
怪我をしたときに学習した患部のかばい癖の残存。
緊張状況での仕事のときや日常長時間続ける姿勢の固定化。

そのような
腰痛や肩こり、側弯や体幹の捻じれ、猫背や反り腰。
骨盤のずれが固定すれば脚という最大の力を持つ筋のゆがみを助長して胴体以上を崩れた建築物のようにしていることが見て取れます。
そのような実態ある身体に蓄積した代償が積み重なり積み上げられた結果から身体機能が後退したり痛みがでている。


押しつぶされたような問題の発生がおきていたとしても、
アンバランスなプロポーションからは恐れの感情をいだかずに生活を送れるようにできています。

代償作業を尊重しているから。
代償してくれてありがたいとは思わなくても、
代償してくれているから大丈夫だと本能が感じてしまう。


[やじろべえ]の右側の重りを増やせば、左側は同様に重りを増やすか重りの位置を遠くするように移動させて左右のバランスを取ります。

ある意味、【陰陽】に当てはめて考えれば、
右手の使い過ぎによる腱鞘炎が主訴として痛みを訴える【陽】、日の目のみたところ。
左手の上腕三頭筋当たりを陰で酷使していて左右の手のバランスを取っていると、
左手の上腕三頭筋という代償は本人はあまり負担や痛み、張りを感じていなくとも
右手腱鞘炎に比例してかそれ以上の炎症が入り込んでいます。
その代償によりつくられた蓄積疲労が【陰】に置かれているのが道理なのです。

なぜ【陰陽】というかと言えば、陽の腱鞘炎の主訴はカラダの前面表側にでたならば、陰の上腕三頭筋の凝りは背面の裏側に現れています。
バランスを取るというのは、左右のバランスも前後のバランスも、そしてときには上下のバランスも対にして起こることでのみバランスが保てる。
陽となる腱鞘炎を使い過ぎていたのは気づけても、
陰には代償作用で上腕三頭筋を同期して同時に使い過ぎていることは無意識にとるやじろべえのバランスの再設定のようなものです。
陽を重くすれば陰も重くしなければ吊りあわない。
それは陽を使い過ぎれば、陰も使い過ぎる部分を必要とするということです。
そうすることで体があからさまに傾斜しだすため、それを無意識下で修正し調整しています。




ですが代償はいわば不幸を承知で作り続ける闇です。

明かりをつけて闇を照らす。
白日の下にそれを引っ張り出すことで、
闇を創造し続けたものがその後に何をすべきか。
意味をかみしめて理解することが、
代償により見て見ぬふりをしたわけでもなく気づかなかったからやらかしていたんだと悟ることです。

代償さんに長らく甘えてきた・・・・・。

だから代償へ不具合な運動や労働の後始末をさせずに済むようにすることが愛あることだと私は感じています。


代償さんに、いままでの感謝を述べ、手放してやっていく努力をして、元気な暮らしをしていくと決意することです。


代償が作り続けるウィトルウイウス的人体から身体の形状を遠く引き離すならば、
そのものは羽の使い方を忘れた鳥のように思えるのです。
大空を爽快な気分で羽ばたける力があるのに、徐々に羽の存在を強く忘れ意識から消し去るようです。

単純な肩こりが減ったとか腰が重くならなくなったという症状緩和の話に留まることではすみません。
崩壊しかけた部位を無理くり調和させ続けるといった苦行を手放したあとに、
真に調和のとれたカラダを手にしたならば。





その調和は、窮屈に閉じ込められた体の筋委縮から解放されるでしょう。
脊椎という中心軸が、すっ~っとしなやかさをたたえて伸びるでしょう。
そこから、人は徐々に自身の身体内部の旅をしやすくなっていきます。


事実、慢性化した代償によりできた体の深部にできた筋膜の癒着は、
多くは大幅な凝りやゆがみや骨自体の弯曲や委縮にも手を下すほどのことも起こしているわけです。
そうなった時点で、骨膜の感度が薄れていく。
体の内部感覚は筋の状態を観る前に、長さが決まり関節で固定された骨が道になり、番地になり、位置決めに使われます。
伸縮性ある筋肉には骨の代わりは務まりません。
骨膜の感度が鋭敏でなければ、自身の体内状況を知るための測り(はかり)が骨「こつ」なのです。
コツ(骨)がつかめなければ、カラダの内側の旅はつねに迷子。それゆえに、動きの再現性が乏しくなるのです。

または神経の作動に潤沢な血が必須だが、動脈の流れを通す深層部に位置する動脈管が深層筋の凝りにより圧迫されることで、流れの停滞をおこせば、感覚神経の鋭敏な機能が鈍ります。

他にもいろいろと代償により水面下でおきてしまった世迷言が多数ありますが、ここではサラッとお流します。



ひとつの事実として、自身の内部感覚が豊潤で興味深いミラクルな発見が、これほどまであるものか!と気づけたしあわせに至った人たちは、
一般的な旅もたのしむことができます。
同時に自身の皮膚の内側へ向かう旅も味わうことができます。

私の経験上、
外出する旅(外に向かう旅)には、いっしょに出かけた家族や友人との思い出がこころに焼き付いて揺さぶられることがあります。
大切なものです。

私は自分の内側へ意識を向けて旅(内に向かう旅)をして経験を積む瞑想行為を「インナートリップ」と呼び、
その旅から持ち帰った記念品が、さまざまな施術上でも役立っていますが、それだけではありません。
インナートリップ中に代償の闇に気づくことがあります。
そこでの気づきがさらに体の調和を高めてくれるのです。
体の代償部位が微痙攣をおこして代償があることを知ることもあります。
時間をぜいたくに使い、徐々に代償個所が静まり平らに緩みだすと、私の脳はそこでひとつの学習をします。

代償は急場しのぎのやり方が繰り返されて定着した運動操作により強化された「体の使い方の悪癖;誤用」が生み出し、根を据えます。
意図的に作り出した運動や操作感がないものだから、自分がその代償の創造主である実感がわきません。
こぶとり爺さんの悪い爺さんが鬼にコブを付けられた程度のことで、誰かが自分をおとしめているのだと感じているのです。
それがときには昨日いったような施術者がさわったら凝りができたといったおかしなことをいいだす人も出てきます。。。
パンプアップさせるほどの繰り返しの運動や負荷など、施術者がその場で与えることなど不可能と、考えればわかるはずです。
そしてこのような「自分以外の者がつけた傷」のような錯覚、妄想を抱いたときには原因を知的に追及して源流をたどれません。

そうなると、どうでしょう。

代償をあたえる運動をしなくてすむように、賢明な運動操作にやり方を探索して創意工夫を加えるべきです。
ですがそうする発想が思いつかないまま、いつまでも代償が放置されてしまうのです。


それが良質なヴィジョンがともなったインナートリップ中には、
窮屈な筋緊張をもってバランスをとる代償をおこさない方法がいきなり脳裏に発想されることがあります。
人間は二足歩行でウィトルウイウス的人体からプロポーションが離れても違和感を感じられないよう、
代償の力でどうにかこうにかうまくごまかす能力を手に入れました。
それが四足歩行の野生動物なら、肩関節や股関節のはまりが浅くなったり、脊椎の委縮はありえない致命傷で死を意味することさえあります。
それを避けるための機能が本能として与えられています。
インナートリップ中には、その本能の部分にアクセスしやすくなるのだろうか。
そのように感じます。

代償のパターン化した根強く定着した運動が、
眼に見えて、身体で感じて、消えたり改善していくことがあるのです。


ただこのようなインナートリップのような瞑想は私は体のゆがみがだいぶあった昔から行ってきましたが、
そのときはさっぱり代償のブロックを見つけ出すことができなかった。
ここ最近、手の内の研究成果だと思いますが、筋肉の柔軟性向上が体全身に行きわたってから、
代償を見つけ出して、窮屈な緊張を必死に歯を食いしばってし続ける代償部位と語りあえば、
どこの部分のサポートをしている代償かが直感的に把握でき、どのようなときにしていた運動だろうかとも見えてきます。
さいわい、私の場合、動き方の法則はある程度は頭に入っているので、
お題が出されれば、数秒しないうちに対策としてよい代替の操作が見当がつきます。
その見当がついた時点です。
もう代償の動きのパターンを思い出せなくなっているのです。

つまりインナートリップという体の内側をめぐる旅に出たときには、きまって大小の体の変化上の収穫をもらって帰ってきます。





施術を施術家から受けることで
代償を拭うこともできますが、
そこには代償が要求されます。

施術費用としてお金がかかるんですね。

そして自分が代償でこさえた凝りなんだなと自覚が持てなければ、
代償をいろいろな意味で手放しづらくなるのです。。。



対して、自分の知覚や触覚,視覚などの想像力をフルに活かして内的世界に歩み出ると、
代償は代償を支払わなくてよくなることもでてくるわけです。


そのような体験を通して自身の身体の内側に踏み入ってみると、
昨日の代償を背負っていた自分を思い出せなくなるときがでてきます。
そして代償以外にも、人体内部にある伝達力を低くして問題を振りまく要素があることを見出すことがあります。


人の内側を流れる物理的な物質やエネルギー・気など含め、
様々な可能性を解く力は与えられており、メンテナンスや発掘次第では手に入るものです。
興味が尽きませんね。