ワーク屋さんは結果が出て収入がはいるものです。
人から物事を学ぶ場合、
人の説明や意見はロジックに誤差や未熟があります。
よほどの大家の先生で文筆が立つ先生でなければ、
そのようなところがあって当然です。
そこにめくじらを立てるのは得策ではありません。
ただそれゆえ人をみると迷いだすことがあります。
だから私は極端な場合、人をみません。
物(成果物、ワーク結果)をみます。
すると
『あそこのワークテクニックについて、
説明は上手いが成果物(モノ)があがってきてないな』
と即断して区分けができます。
どんな成果物(モノ)が上がってくるかで分類します。
技術力のなさを説明力でカバーしたくなる。
その気持ちを理解できるようになると、
人を判断するときに役立つときがある。
人を見ないと迷わないですむ例です。
たまにそのあがってきている成果物(モノ)をみながらも、
人を見て迷ってしまう。
人がNGだったらモノもNGと等式を立てている。
それは自分が何が欲しいのかの目標を、
どこかに置き忘れたということです。
もう一度確認してみると、
もったいないことをしたと思えてきます。
逆に説明が下手でも成果物(モノ)がしっかりあがってくるときもあります。
人は嘘や詭弁、誤魔化しも使えます。
でもモノは嘘をつけない。
検証結果誤魔化しも見逃さない。
統計のマジックなどやごまかされやすいところを事前に理解して検証。
そういう目を養う。
そのうえで判断した成果物(モノ)。
モノの成果に素直に着眼します。
それから人を見ていくと、
その人物の素敵さや有能さが心に沁みます。
私はこんな見方をしています。
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人を見ずに成果物(モノ)を見よ!なんて、
人を大切にしていないといわれそうです。
ですが生まれて出てきた成果物(モノ)も、
人から生まれてきたものです。
成果物(モノ)にはその人が手向けた愛情や思いが入ります。
だからモノに成果が宿るのだと思います。
人がモノを輝かせる。
それを愛でていくことは、
自然な行為のように思います。