ヴィパッサナー瞑想で観察眼を養成しようかと

実践 ブッダの瞑想法―はじめてでもよく分かるヴィパッサナー瞑想入門 (DVDブック)
というDVDが付属する本をアマゾンで購入しました。



あまり「ヴィパッサナー瞑想」という言葉を聴いたことがある人は少ないかもしれません。


ウィキペディアでは、次のように書いてありました。



『仏教において瞑想(漢訳「止観」)は、サマタ瞑想(止行)と、
ヴィパッサナー瞑想(観行)とに分けられる。
前者が心を静めることを中心とし、
仏教以前にもインドにおいて広く行なわれてきた瞑想方法であるのに対し、
後者では観察することを中心とし、
釈迦が新しく開拓ししそれによって悟りを開いた
仏教独自の瞑想方法とされる。』


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%91%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%8A%E3%83%BC%E7%9E%91%E6%83%B3


おそらくこの文章からいたしますと、
観察をすることにより悟りを開くということができるんですよ、
って仏教では申しているのですね。



悟りといっても高尚な悟りもあれば
もっと身近な体の動かしようの悪癖に気づくというようなこともあるでしょう。



本日、長年にわたりだいたい月に一度のペースで
ワークを受けていただいているお客様がお見えになられました。


そして、とてもうれしいことをいってくれました。


「体の動かし方を改善したら体が変わってきた」


体をどうやって動かしていたかを省みるような観察眼が芽生えてきた。



今まで自らが手放そうとしなかった肉体に負担を強いても
その方法でしか動く方法がみあたらないからそうしていた、
という状態から離れることができてきたということを意味します。


自分の体の使い方を観察できていなくて。
その時期は誰に何を言われようが「そういったものなのかな?」と他人事。


だから耳には聞こえても腑に落ちない。


それではいつまでたっても変われない。


そこから確実に抜け出る方法を見つけ出してきて、
肉体にはその実感が表れてきている。



たとえば歩くときに足を上に持ち上げて運ぶ動作をする人は、
黙っていても必ずっていってよいほど腰痛になるんですよね。
それはダメージのかかり具合にも大小あるんですが、
私どもの目には数歩も歩かれればそれはわかります。


だから歩くときに足を持ち上げてはだめですからね、
と口をだすのです。


自分が足を上に持ち上げ歩いていると観察して、
「そうだな、これをやめてもっと楽な歩きの方法を選んでもよいな」
と思えるかどうかなんですよね。
観察し切れていない人はここに新たなる選択肢をいれる余地がない。
だから今までの状態を気づかぬうちに繰り返し引きずってしまう。


自己の動作を第三者がみるような目で見れるようになると、
なにげなく緊張して抜けなくなってしまったようなことも
自ら選択してそうしていると気づいてはじめて抜け出せる。


動き方やわきおこる想念など観察していくことの積み重ね。
そこに身をただし整えていく秘密があるのだと思います。


ちなみにそのお客様は自らの歩き方の改善のおかげで
脚部の深層筋等の身体の深部の根っこにあたる
筋肉群が緩みだしてきていた。


歩き方が良好になればわずか3日で身体の状況はがらりと変わる。
それはかつて数名のお客様が私の目の前であらわしてくれたことで、
実感があるのです。


観察眼を身に着けたいと思えるモチベーションは、
どのようなときにえられるのでしょうか。


私どもが勧める体の使い方を取り入れてみて、
それに従い体が少しずつ楽になる。
私どもの目でお客様の体を第三者的に観察しての
アドバイスをしているわけです。


そうこうしているうちにお客様が
「自らの観察眼で自分の体を変えてみてもいいんじゃないの?」
とはっと我に返って気づく。


自らを今まであまり観察していたようでいて、
あまり見ていなかったことに不思議さを覚え。


そんなときにもっと観察をして、
自分を理解していこうと考える。


もっと今まで見過ごしてきた自分のすべてを
見てみたいという欲求が芽生えてくる。
それがモチベーションに火をつけるのでしょう。