神社仏閣でひらめく瞬間


今日はスピリチュアルな内容かもしれません。



人間は精神と肉体という2部構成になっていると考えます。


どちらかといえば肉体の方が手に触れて目で見て音に聞く、
さまざまな情報を得られることと思いました。
精神は研究をいずれしていく必要はありますが、
まずは体から突き詰めてみていくこと。


そうやって肉体というものを見つめていけば、
やがて精神との共通性を感知できていく。
肉体は精神を理解するためのハンドリングの良いガイド役だと思いました。


少なくとも私にはそうする道を選ぶべきだという動機があった。
だからそうするしかなかったというところも大きいでしょうか。


実際はまだ肉体面についての観察も十分すんだわけではなくて、
この先も学ばなければならないことが多い。


ですが確かに体の辞書を読みとく過程で手応えを感じることもあります。


体のバランスをボディリーディング的に読んだり、
陰陽や経絡の流れをチェックできるようになると
「ある種の直感力」が鋭くなってくることもあるようです。


たとえば聖地と読んでも過言ではない場所で
写真を撮ると不思議な球状の白いものが浮かぶ様子が映る。
強烈な意志の力を秘めている人の周りにも映ることがある。


このような様子は誰もが写真を大写しにして自分の撮影したものを観れば、
多かれ少なかれ映っているものを発見することがあるものです。
それに他の施術者でもそのような存在を撮影してスピリチュアルなものを
自分は体得していると申している人もおられるようです。


そのような写真が撮れたことによって
御神体が撮影されたといいありがたく感じ、
喜ぶこともあるとききます。
神々しい光を表されることもあり
そのような気持ちをいだくことも共感できます。


ただ私に仮にそのような写真が撮影されること、
それ以上に大切な事があります。


最近では日本の神様や仏教の本が多数出版されているので、
平易なものを図書館で借りて読んでおりまして。


拙い知識ではありますが神社仏閣へお参りに行く時には、
お参りさせていただく神仏への敬愛する気持ちは溢れて、
「この神仏なら自分の考えていることを
どのように判断して行動するかな?」
と考えるようにしています。


そのほうが神様との波長が和合するでしょう。


そんなときに強いインスピレーションを感じ、
問題ごとの解法が閃いたりすることが多い。


ともすれば依存心が強い弱い私自分が
神様のような写真を撮影してしまえば
そちらに救いを求めようとしてしまう。


そのようなことは、
時と場合によりましたら必要かもしれません。


ですがいつもの自分の時には
自分の力や意志を強めて後押ししていただきたい。
自分が主体であり続けて、
こそはじまることでしょう。
神仏が私の身代わりになってくれることはない。


そんなことを考えつつ神社仏閣へお参りに行く。



しっかりノートとペンをポケットに入れて、
帰り際には2〜3の問題の解法のヒントを
書き込んでいたりする。


実際に私が人にお話する体の使い方のノウハウがどこに書いてあるの?
といわれたり施術法が他にないような感じだけどといわれるのですが、
そのときに書かれたノートの内容をもとに導き出したことが
体の使い方や施術法のアイデアに生かされていると木がある。


大部分は私が日頃考えていたことを、
ふっとした意識が別へ完全に移行したときまとまってアウトプットされる。
そういったことなのかもしれません。
ですが、それにしてもやはりその地に出向きお参りさせていただくことは、
大変貴重な飛躍を与えていただけるということに違いはないのです。


そんなことを朴訥と感じてやまない。
今日この頃です。