我が身をひいきにしなければ迷わずいきられるかも


迷ふといふは、我が身にひいきのござるによって、迷ひまする


臨済宗の禅僧、盤珪禅師のことばです。


我が身をえこひいきしたいという気持ちがあるときに、
人は迷うように出来ているのです、
というような意味あいでしょうか。


つまり我が身をえこひいきしなければ、迷いというものは起きないのでしょう。


よ〜く、私が我が身を振り返るならば、
悩み苦しんでいるときを思うときには
どこかこころの片隅にでもしっかりと
我が身をひいきしていることに気づく。


ほとんど無意識のうちに何かを恐れていて自分をかばっていた。
そんなときには強烈な迷いが取るべき一手を選ばせないように。


そのようなとき心身にストレスが蓄積していくように感じます。
このような苦しみが気の病という”気病”になります。
気病はいずれ骨に入るまで至るようになるといいます。


気病はかなり元気で病苦へ至ることもあります。
精神的な病や肉体的な疾患になってあらわれる。


そんなことも考えたりします。


たまたま私の知り合いにも我が身をひいきにしすぎていた。
本人はそのことに気づいていないのかもしれません。


我が身をひいきに考えず自我を捨てることは、難しいことです。


ただ我が身をひいきすることを離れて迷いをなくしたのならば、
気病の嵐から逃れることがあったのかもしれません。


そのようなことを他人にいわれてもぴんとくるものではなくて、
自主的に自分で気づいていかなければならない。


そのようなことを思い悩んでやきもきすることもあるのですが、
実は私も他の人からそのようにやきもきされているのかも。


こころを平らかにして迷わず生きることは難しいですよね。


そう思う今日このごろです。