観たまんま言ってみるトレーニング

「体」と「意識」と「言葉」の使い方編



こんなことで困っている人がいたとします。


以前、自分の可能性を信じて夢に向かって挑戦しようと心に決めて頑張った。


だが、自分の実力不足が思い知らされるだけで、


これから説明する『意識』とは、
現実に見たり聴いたりといった五感を通しての体験ではありません。
頭のなかのイメージで思い描いたシーンの登場人物に自分がなって体験している状態のこと。


この頭のなかに思い描くシーン。
それが充実した自分を思い描けていれば何よりです。
ウキウキして、
気分がいい。


そんな意識でいるときは、
意識で体験していることは、
そのまま体の体験と同様に脳が受け止めて表現してくれるようで、
ついついリアルな体の方も楽しくなって口元がニヤついてしまう。


この頭のなかに思い描くシーン。
それが劣等感を感じ、恐怖心を掻き立てられたりするとどうでしょう。
新しい職業を選択しようというとき、自分の可能性を信じてみたいのだが、
どうせ自分が著名な作家になって食っていけるなんて思えないよなとか。
食っていけなかったら、自分の将来も見えなくなる。
親兄弟や奥さんや子どもだって不幸にするだろう。
こんなシーンを意識が体験している。


すると体にも変化が起きます。
どうせ自分なんかにはできないだろうけどという思いが劣等感を生み、
胸を張ることを忘れさせられる。
それに生活苦がくるのではと、
来てもいない未来のできごとを
悪いことが起きることへ集中し、
恐怖心が膨らんで体の緊張が抜けなくなる。


この場合は、自律神経系に至るような負担。
長期に渡ると、これが重くのしかかりだし、
気づくと体の深部までシコリ化した筋肉が
入り込んでにっちもさっちもいかなくなる。


つまり頭のなかで思い描いてしまった情景を体験している様子が、
それが実体験なのか虚構のイメージなのかは脳はあまり判断せず、
体にはなにかヤバイことが起きそうだから準備しておけよとなる。


このような意識の作り上げたイメージを体験して起きる影響は、
想像以上に肉体面にてきめんに出てきてしまうものです。



人間は、危険なことから体を守りたい本能があります。
自分の自我を守るために、劣等感から逃れるためには、
そこから意識を反らすような虚脱状態の呼吸をさせて
感覚レベルを押さえ気味にしてストレス低減を模索し、
いつしか呼吸を抑えすぎて胸の呼吸筋群の動きが抑制。
そんなようなパターンに陥ることもあるようです。



このようなときには意識を見つめれば見つめるほど、
体の調子が悪くなってくることだってあるのですね。


だったらどうすればいいのでしょうか?


意識に目を向けているから、そちらに気を取られるのです。


体に眼を向けていくならば、意識に眼を向けなくなります。


体と意識を同時にちゃんぽんにして見つめられるほど、
器用な人って少ないはずですから。




体の五感をフル活用していく。


たとえば、視覚。
いつもならば何気なく見ているテレビ。
そのテレビに注視して、言葉により観たまんまを口に出してみる。


ここでようやく『言葉』という集中の魔力を持ったキーが出てきます。


今の、私の目の前にあるテレビを観察して、まんま、言葉に出してみると、
「このテレビ、黒いぞ。左上に『REGZA』ってあるな。『TOSHIBA』って書いてあるな。スピーカーが下の方についていて〜」
などなど、丁寧に、その特徴を100も挙げていこうとすればいいだろう。
私は、テレビに対して、50個ほど、観察して言葉に、を繰り返しはてた。
ただ、身心が深い休息をとったあとのように心地よくなっているのが解る。



そのようなリアルな肉体の目を通して脳にダイレクトに言葉で情報を送る。
意識のフィルターをあまり通さないような五感の使い方に徹すると、
劣等感や恐怖といった意識の定着性により体がシコリ化していったものが柔らかくなりだすことに気づく。


つい最近に生じた劣等感のような意識でつくりだした筋肉の硬直ならば、
これを丁寧にしていけば消え去っていくのを感じ取ることができるはず。



観察物の様子を言葉に出せば、
見つめる眼差しは生気を帯び、
心のなかが静まりだす。



そうやって体を、いったんはしっかり緩めるような筋肉づくりモードへ。


徹底して行なうようにするといいでしょう。


そうやって細々とした細部まで見通すような観察力を持てるよう訓練し、
大きな問題を見つけるとそこばかりしか見れなくなる状態から抜け出す。


意識がひとつのところばかりにとらわれると、
クローズアップして他が見えなくなるのです。
厄介なことに、このクローズアップ機能がすごすぎるので。


そうして、
意識のイメージのヴィジョンに感覚投入しすぎてしまうと、
こころがきついとき、しんどいとき、弱っているときには、
特に体の奥に実際に緊張を強いてシコリをつくりだします。



それは、あたかも、
水槽の中に飼われたサメの実験で、
サメと餌の間に透明のアクリル板を入れておくと、
餌を食べようとしたサメが鼻先をしこたま打つと、
そのサメはアクリル板を外されても、
餌を食べに行こうとしないことにも多少似ているのかもしれない。


餌が食べたくてしかたがなくても、
鼻先を痛めたときの恐怖を思い出すと、
もうそこに餌をとりにはいけないと足踏みをする。
サメは賢い動物だからこそ、
経験で学習をしたわけです。


ただ本当に賢いのならば、
アクリル板が今もあるかどうか、
そーっと近寄って確かめればいいのです。


意識が、見えないアクリル板をあるようにでっちあげている。


そして、そのでっちあげられたアクリル板のせいで餓死するサメもでてしまうそうです。



五感も錯覚というものがあるのと同じように、
意識も巧妙な錯覚が入り込んでいます。
意識の錯覚のほうが見破りづらいようです。


その意識の錯覚を見破るトレーニングが、
肉体の五感を通じた情報と言葉とのコラボ。



がんばってこのようなトレーニングをすることで、
意識で自律神経失調をを作り出していた方が改善、
という人がいました。
意外に短い期間で改善したので私もその人もびっくり。


お金がかからないことですから、
ストレスが溜まり気味の方は、
一日に5分ばかり、
観たまんま言ってみるトレーニン』を楽しんでみてください。