自分のお役が果たせるだけの力があれば老化しても不都合はないのだろ

こんにちは。


なんとなく、2013年という正月を迎えて、
そして日常のモードに移行しているのが、
いまだにピンときていません。
困ったものです。


今日は、目黒不動尊へ初詣。


暗くなってからいったもので、
ものすごく寒かった。^-^;


お参りしながら考えていたこと。


先日のこと、友だちからのメールで年齢がもう数年で50歳に差し掛かった頃ですから
「どう生きるか!」から「どう死ぬか!」という意識に変わっていったといわれました。


この友達は、太極拳を始められているようです。
おそらく身体的には、かなり屈強なことだろうと思います。
だからこの友達の「どう死ぬか!」というのは、
体が衰えてきていうことを効きづらくなったからではない。
本人がインドを旅したりという精神性を求めている方なので、
そのような意味での「どう死ぬか!」ということも含まれているのでしょう。


ただ残念ながら、私の他の友達のことを観ると、
少し様子が変わってきていました。


あるひとりの友達は、
尿酸値が高くなってきて痛風に。
また他の友達には、
最近、会社に行くのが体に堪えるとしんどそうに言っている。
体がふしぶしがうまくコントロール出来ない感じになってきて、
相当に自分の体が老化してきているなということを自覚させられている。
物忘れがかなりひどくなったということにも、落ち込んでしまうという。


そうなってくると「どう死ぬか!」なんて、
なんとなく差し迫った縁起の悪い言葉のようで、
おいそれとは言いがたいところになっているのだろう。


だからきっちりと老化防止へと抵抗しようとする。
話題といえば、
最近はデトックスで重金属を排泄するようがんばってのよとか、
フィットネスクラブで新しい講座を受けて体の線がいい感じになってきたよとか、
マシーンスクワットやダンベルを始めてムキムキになってきてるとか。


体を若返らせたい。



だから意識は「どう生きるか!」です。
これはこれ、積極的に自分の体を面倒をみようとしていますので、よいことだと思います。



人間は老化したとしても体さばきなどの技は、
技という技術の向上により優れたものへと進化し続けるが、
肉体的な老化による衰えはいかんともしがたいところがあります。


その老化する自分をうまく受け入れていくこと。
老化を一切受け入れられないと思うのであれば、
フラストレーションが年々高まり、
かえって精神衛生上苛まれます。
これはあまりよろしくないでしょう。



目黒不動尊で独鈷の滝の前で佇んで考えていたのが、
人は誰しも自分がやるべきお役みたいなものがある。


それは自分がやってみて気持ちがいいし、
やりがいを感じられる自分だけの潜在する能力をピークに持っていける事柄や仕事があり、
その仕事に対応することが出来るだけの力を残しつつ老化していくようなものであれば、
十分受け入れてもいいもののように感じられた。


自分の役割を早めに見つけて、
それにとりかかることができ、
ノウハウを蓄積していければ、
老化しても対応できるはずだ。


そんなことを私は太極拳を長年やっているお年寄りや、
合気道をなさっておられるご年配の方に何かを見出すことができました。


だから私は太極拳合気道などにあこがれのようなものを持ってしまう。


そうなんだろうなと思います。


やはり年配になると太極拳をなさっている方のほとんどが、
若い時よりも足をあげるのが難しくなります。
ですがよく練られた動きには、それらをカバーできる技がある。
風格と気品がある。


それは後進に対しての、大切な贈り物をしてくれているような、
そんなメッセージをも伝えてくれている。
そんな気がしてなりませんので。


加齢しても体が動ける、使える、というような状態でキープできれば、
それほど老後に対しての多大な安心感を与えるものはありませんよね。


自分が老後でも活躍出来るだけの、
最低必要十分な力をつけておきたい。


それがまかなえれば、
さして老化しても不都合はないと思う。


おそらく「どう死ぬか!」と申された友達は、
当分、死なないと思います。