大きな仕事のやり方には、
工夫が必要です。
ウエイトレスが、牛を連れて来ました。
『どうぞ、お召し上がれ!』
あなたは、
この牛を、一頭。
食べるにはどうしますか?
『私、一気にかぶりつきます!』
そんな絵をイメージする人。
いるかもしれません。 ^-^
この問には、正解があるようでいて、ないかもしれませんね。
フードファイターなら、それもできるでしょう。
私には、ムリな戦い方ですよ。 ^-^;
ふつうに一人前の御膳を頂いて、
ちょっと多いかなと思うほどで。
そんなことをしたら、
どれほど、つらくなるか。
どれほど、苦しくなるか。
どれほど、悲惨極まりないか。。。
途中で、諦めるのが関の山です。
ならば、私ならばどうするのか?
一口づつ食べられるようなサイズに切り分けて食べます。
一気に食べるのは、
私の一日分の胃袋の容量ではムリです。
余った分は冷凍庫に入れて保存します。
そして後日、一日分の量に切り分けて、
一口づつ食べられるようなサイズに切り分けて食べます。
それを繰り返し月日が過ぎれば、、、。
当たり前といわれたら、その通りでしょう。
巨大な牛と同じほどの難問を解くときには、
どのようにすればいいでしょうか?
巨大な牛を、
いきなりかぶりつくようなことをしますか?
そんなことをしたら、
どれほど、つらくなるか。
どれほど、苦しくなるか。
どれほど、悲惨極まりないか。。。
途中で、諦めるのが関の山です。
だったら、どうすればいいのか?
それは巨大な牛を食べるときと、
やり方は変わらないと思います。
大きな問題を一日分に切り分け、
一口づつ平らげていくだけです。
味わって食べていけば美味しい。
食べ過ぎれば、
味わうどころではありませんね。
欲張りすぎればつらくなります。
それが「主な諦める原因」になります。
どんな巨大な問題でも、
それを味わって食べる。
美味しい量を切り分け、
一口づつほおばります。
そして問題や問題解法のモチベーションが消えないように、
冷蔵庫で腐らないようにしっかり保存して保管期間を考慮。
そうすれば、
小さな体の人でも、
大きな体の人でも、
それぞれのペースに合ったやり方で、
いずれは平らげてしまわれるのです。
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私の施術を始めたときの動機は?
「お客様を改善させたい」という願い。
それは大きな存在感を放つものであります。
ですがそれだけでは、
正直にいえば、
「お客様を改善させよう」という信念だけでは難しかったでしょう。
おそらくそれだけであったとしたら、
私は他に天職を求めていたでしょう。
そのようなことを言えば、
立場上、非常識な物言い。
いうべきかどうかさえ、
迷うようなことですが。
ただ
『大事にしたい人を救う力が欲しい』という、
そのメッセージが私の潜在意識には染み込み、
それが、施術を始めた当初からつづいている。
強烈に赤々と燃え続ける情熱の源があります。
親しい身内をいざというとき自らが助けたい。
それは親しい友人も含めてです。
医者にまかせなさいといわれそうな事態になる前に、
自分ができることを尽くしたい。
自力では対応できない課題は他者に任せるのですが、
自分の課題と意識したものは、とことん追求したい。
身内の生命に関わるようなとき。
いざというようなときがきたら、
そこでも知恵を振り絞り成果を。
そうできる体力や知力や方法を、
日々、身に備える実感を養成し、
巨大な牛をたいらげていくだけ。
昔も今も、そうやってきました。
だから続いてきたのでしょうね。
かなりの巨大な牛だったわけで、
途方に暮れながらも、
温かい目でお客様が勇気づけてくれておかげでがんばれたところです。
ありがとうございます。
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また、施術を受けるときに、
身体状況が思わしくない方の考え方についても言えているだろうか。
「巨大な牛を一頭」の巨大さが体に蓄積された負担部分だと考える。
そうなれば、一気呵成に食べつくそうとすれば、つらくなるのです。
それは現実的な問題として、起きることです。
どこか名人級の施術者なら対処してくれるかもしれないという期待。
それは可能性としてゼロではありませんが、
そうであっても、少し保存された牛の量が早く減るでしょうだけ。
先生があなたの食べる分を隣で少し肩代わりしてくれているだけ。
施術者の存在とは、私にはその程度のものだと思えてなりません。
子供が補助輪付きの自転車を乗っていた。
その補助輪のようなものかもしれません。
自力でペダルを踏んでハンドルを操作し、
そしてやがては補助輪を取り去るものだ。
または人によっては、
鈴鹿サーキットで自動車レースをしているときに、
何周すれば燃料補給をしたりタイヤを交換するし、
故障があればメンテをするピット・インする場だ。
そのような表現を使う人もおられますね。
それぞれ、良い例えだなと思います。
現実問題として、
自分の足で漕いだりアクセルペダルを踏むのは
自分の課題だと問題に向き合う必要があります。
もし施術者に頼ってしまう気持ちが大きければ
自分の内側に積まれた高性能のエンジンを発見できずに使えずじまいです。
私は、幾人かのお客様が、
施術者は助けになるときもあるが、
それも単に有益な補助輪や一時的なピット・インする場でしかないと気づき、
自分が主役で食べて消化するもの。
そう自分に課せられた自分が解くべき課題だと気づいたとき。
そしてすでに体が変化して定着していけるところまで進んだが、
という人のとき、
ふとした考え方の視野の拡張や気づきが舞い降りたとき、
私が観て劇的な変化が、その内側に起きているのを発見。
仏陀は別名を覚者と申しますが、
今の自分自身に意識を向けられ、
現状の自分をつぶさに観察する。
俯瞰視野からもミクロ視点からも、
あからさまに見えて開眼する状態。
そこに近づかれたからからでしょう。
ここが人生のターニング・ポイント。
そんなときにその人の体の奥の方から『 ごちそうさまでした。 ^-^ 』
という声が聞こえてきます。