昨夜は、散歩で北品川の東海寺墓所にある沢庵和尚墓へお参り。
時間は午後6:30だがあたりが暗くてまったく何も見えない。
時折電車が横を通り過ぎるときにわずかな光が見えるだけです。
躓きそうで怖いし江戸時代よりの古い墓所で怖かったので退散。
後日また日を改めて。
ここからマニアックな話で申し訳ありません。m__m;
年末、格闘技のK1を観ました。
もっとも興味があったのが『ヒョードルVSチェ・ホンマン』。
ヒョードルには勝ちパターンがあり負けたのを見たことがない。
他の格闘家に見えないものが彼には見えているとしか思えない。
最近はチェ・ホンマンも性根をすえ精進している。
経験の浅さは彼のずば抜けた運動神経が貪欲な練習でカバーしつつある。
体格差や腕力は明らかにチェ・ホンマン有利。
試合結果は、短時間でヒョードル勝利。
チェ・ホンマンの力が発揮されない。
あっけにとられるほどあっさりした勝負にさえ見えた。
ヒョードルは内側から確信を滲み出しているようにみえる。
他の選手には感じられない異質なやさしさと感性を感じる。
試合ではときに荒々しい荒神のように振舞う。
でもしとめるときはこれで終わりにしようよ、
と関節技を決めているようにみえる。
一瞬で勝負がつく格闘でこのような視点にい続けることは、
常人をはるかにしのぐ観る眼力があるとしか思えない。
そんなことをめぐらしながら歩いていた。
時間があったのでその後五反田のはるや書店により、
目黒不動まで足を伸ばす。
目黒不動では役行者像がある。
過去こちらの前に立つと必ず右足や左腰に激痛を覚えていた。
もともとは足腰を壮健にして修験に励めという思いがある像。
だからこの激痛はなんらかの意味があるはず。
だが昨日は痛まなかった。
拍子抜けして階段を上る。
下りと書かれた階段の途中に役行者像がある。
下りと書かれているのは初詣客が押し寄せたときに、
参拝し終えた人を帰しやすくするため。
だがもう人っ子ひとり通ってはいない。
階段で人とすれ違うことはない。
甘藷先生こと青木昆陽墓所があるところへ参るため、
そのまま階段を上がった。
すると10代中ごろの2人で参拝に来ている少女が、
「ばかじゃないの?降り口から上ってくるなんて」
とひそひそと話している。
さっき仁王門に「ちぃ〜っす」といってせせら笑って通っていた子達だ。
ちょっと気持ちがむっとしたが通り過ぎた。
でも待てよ。
なんでこんなめったに会わない感じの、
おかしな子にあったのだろう?
そこに啓示がある感じ。
普段は別に人っ子ひとりいない階段を上っても差し支えない。
何十回もその階段を上る常連だが小言を言われたことはない。
だけど『降り口:帰り口』とかかれるとそうとしか見えない。
そうとしか見えないようにするラベルがあると守ろうとする。
あまり意味のないこともなにも考えずに守ろうとする。
マインドコントロールとしか思えないラベルがある。
善悪も今と昔と時代により変わる。
人間が作り出したルールに過ぎない。
それに重きをおいて目くじらを立てることもない。
むろん人間が作り出したルールでも社会生活上守るべきものもある。
人は管理されすぎるとどうなるかは一部の社会主義国の崩壊でわかる。
本当に恐いことは、
理解できることなのに理解しようとせず、
それをできるのにしないで放棄すること。
それに尽きるのではないか。
そう思いました。
もしこの少女たちが、、、、、
恐い荒くれものの私の劇団時代の友人にそのようなことを言えばどうなるか。
一週間は包帯が取れない体にされてしまいます。
法律は人間が作るものであとで罪状は決まるが、
決定的なときに守ってくれるほど力はない。
なぜそのことに気づかないのか不思議です。
ヒョードルは、
理解できることを気づき理解した人。
できることを放棄せずにした人物だ。
という言葉がでてきました。
他人が作り出したラベルをはがし内側の奥底からの澄んだ目で見る。
そのときに見えるものがあり理解できるものがある。
それをヒョードルは試合に生かしている。
それゆえの連勝のように感じられました。
それにしても、
やはりヒョードルはすごすぎる。^-^;