生きてるという気づき

「寡黙なる巨人」という本があります。
お客様からお送りいただきました本です。
T先生、ありがとうございます。m__m

著者の多田富雄氏は世界的な免疫学者。
ですが2001年に脳梗塞に倒れ、
右半身麻痺、嚥下障害、そして言葉を話せなくなった。
そのようなお体の状況になられてから書かれた本です。


その本のなかに「回復する生命」という項があります。
著者の身体が自由だったころにタイの山岳地帯に行きました。
黄金の三角地帯と呼ばれるところです。
住民の多くは麻薬・エイズ・生活の荒廃などで大変な様子です。
その住民を助けるためのNGO活動をしている日本人青年S君。
彼に多田氏は案内を依頼しました。
まさに生きるか死ぬかの生死をさまよう状況で働くS君。
その彼に多田氏は少し意地の悪く思えるような質問をしました。


「なぜ、こんな悪条件のここにいるのか。
なぜ、このような困難な仕事をしているのか。」と。


そのときの回答をレポート用紙10枚にわたり
びっしりとかいた手紙が送られてきた。


そのなかの一節に。
「日本にいたときは、
自分が病んでいること、
傷ついていることに気づかず生きてきたが、
現場に身をとおじて、
彼らの生命の回復に携わることによって自分が癒されるのを、
無意識のうちに求めてきたのだと思います。
〜省略〜
ここではみな生きるために考え、生きるために動いています。
自分ははじめて生きることを学ばせていただいたような気がします。」



その手紙に対して著者が続けるには、


「誰かのために何かをするのではない。
病んでいるのは自分だ。
相手の生命が回復するのを見て、
自分も生命を回復させられることに
感謝しなければこのNGOは務まらない。
私の病んだ心まで洗われるような気がして、、、」
といいます。


誰かになにかをさせていただく理由を述べるとき、
切羽詰る命の生き死にのなかに身を投じるのは逃げたくなるほどつらい。
日本ではここまでの修羅場をかいくぐることはないかもしれない。
重症な麻薬患者が再起をしていく姿を見て生命の神々しさを感じ、
そのとき自分が病んでいたのに気づいたのかもしれません。
病んでいるとは生き死にの切羽詰った問題もまるでバーチャルのように
遠い世界に感じられて実感がなかった。
日常生活の忙しさに忙殺されていて
生きるありがたさや生きている感動が感じられなくなってしまっていた。
そのようなことなのでしょう。
自分がタイの山岳民族の方々の援助をする過酷なNGOで奔走するとき、
回復して生きる喜びを取り戻す彼らと接する。
そのときリアルな「いきている」身が打ち震えるほどの実感をいただいた。


生きることに正面から向き合う。
純粋に澄み切った心でなければ出てこない言葉です。



『生命の回復に携わることによって自分が癒される』
という言葉は心に深く染み入ります。
仏様の言葉を聴くような心境です。