『そこにあると考えない限り、そこにはなにもない』

『そこにあると考えない限り、そこにはなにもない』

「意識」に関する書籍を読んでいたときにでてきた言葉です。


どのようなことかざっくり丸められた言葉なので、
ちょっとわかったような分からないようなところがありますね。


でもとても深く印象に残りました。



いろいろこの言葉から空想できるでしょう。


たとえば施術をするもの的に強引なことを申せば...
しこりが体のなかにあると自覚するようなことがないと、
そこにしこりはない。


実際に、ボディチェックをしてみると、
体の関節周りやそこここに硬い部分があるときも。
そのようなものがあることに自覚がある人やない人もいる。


自覚があれば
『そこにあると考えない限り、そこにはなにもない』
ではなく
『そこにあると考えていて、それが明瞭になった』だろう。


自覚がなくて見つけられれば、
『そこにあると考えない限り、そこにはなにもない』
だったから
『まさか、私の体の中に異物があると思わなかった』だろう。


「そこあると考えられる」目があるとそこにあるものをキャッチできる。
しこり等はもともと炎症を含んでいるが、
しこりが血管を圧迫し血行が悪化させていたり、
神経をひきつらせていたりして痛みが麻痺している。
だから痛んでいないものなのです。



そのような麻痺したままでは、脳はそこにしこりがあるなどとは考えない。
(のかもしれない)
明らかに炎症があまり感じられない痛みがない部分には
血液をふんだんに送ってしこりをとかそうとはしてない。


『そこにあると考えない限り、そこにはなにもない』的に考えれば、


【脳がそこにしこりがあると考えない限り、そこにはしこりはない】
という扱いになってしまう。


不思議ですがそのようなことで、
筋肉を緊張させて短縮させ関節の動きを悪化させたり
代謝を悪くしているはずのしこりを放置しておきます。
そして年々、そのしこりが年輪のように深まり影響を強めていく。


だから私はときどきお伝えすることがあります。


「今は、この部分は痛みがまったくかちょっとしか感じられません。
ですが、あと何度か施術をしていくと痛みがわかるようになるでしょう。
そうなると改善していくきっかけとなるでしょう」
というところの裏には


【脳がそこにしこりがあると考えない限り、そこにはしこりはない】
から

【脳がそこにしこりがあると認識して異物を感じたら、そこのしこりを溶かしだす】
という対応がなされるからです。


脳が自律神経系のデータをもとに計算して、
血液をどのようにどの体のパーツに量を多めに流すか、少なく流すか、
決めているんでしょうね。


痛覚も含め感覚が曖昧になっている部分にはあまり血液を渡しません。
そのような明確に必要だという部分以外に血液を送り込んでいけば、
エネルギーの消費量も半端ではなく多くなります。
今の必要な部分へ送る優先順位をまかなえた残りを、
そのようなところに振り分けるようなマネージメントをしている。
だからある程度、体の歪みや凝りの部分が多くなると、
それだけで呼吸器や循環器にストレスがかかるだけでななく
体をささえるという基本的な運動系でも多くのエネルギーが
費やされてしまっている。


そうなるとそちらの理想的な体の状態ではそれほどのエネルギー量を
かけなくてもよいところに多くのエネルギーをすでに割いているため、
すでに内在したしこりを溶かそうとするところへ血液を割り振れない。
そこで問題が生じることがあるんですね。


私が感じていることは、
人はある程度の楽な状態に体を一度リセットして、
そこから正しい体の動かし方などを学べれば。
相当に若い肉体を年齢がいっても保持できる。
そうだと信じています。