非日常的な旅+骨盤が前傾すると滑るのです

私が小学生になる前の頃。


目蒲線(現在目黒線)のガタンゴトンを聴きながら暮らしていた。
線路脇に住んでいました。
線路脇の土手が好きでした。
ハナムグリがいて、
カナヘビが日向ぼっこをしていた。
わずかな動植物を観察して、
親しみを持って見つめた。
そんな時間が大好きで、
世界が輝いていた。


線路脇に住んでいた当時では、
日常に隣接していた世界です。
大自然とは呼べない小自然界。
しかし瞬間的にその場に立てば、
非日常の世界を体験できました。


小さな世界でしたがそこでは毎日違う発見がありました。
糸トンボが飛んできたり、
蛇の脱け殻を見つけたり。
眺めたり語りかけたり。


そこには自然という偉大な演出家がいて、
すばらしいエンターテイメントが繰り広げられています。
飽きることはありません。


賢い子供ではありませんでしたが、
幸せな子供でした。
どぶに落ちて瘤を作りながらも、
キラキラと輝いていました。

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だがいつのまにか『日常の住人』になりました。


型にはめられる教育。
学校教育もその一部。
そして社会のルール。
社会に適応がうまくいくかどうかで、
自分の価値判断基準をこさえてしまう。
すると脳に届いていた新鮮な刺激が減少し始める。
打算が入り込みだす。
ものの見方や感じ方が型にはめられたことに、
いつのまにか気づきもしなくなる。
(自戒です。TT1)


型が窮屈になれば息が詰まる。
目に映っても見えないものが増していった。
眼から入る光子エネルギーを吸収できない。
(注:食べ物からだけエネルギーをもらっていたのではない。
光からも、音からもエネルギーをもらっていた気がする。)


そして子供時分の観察眼が鈍る。
好奇心も規制の対象になります。


確かに型があれば大外れなことはしない。
型(一般的な人生のレール)がなければ不安になる。


だが型にはまれば楽な反面、
自分の『殻』ができる。



好奇心旺盛な心を持つ体の筋肉は、
いつまでも子供のように柔らかいままです。
その傾向は大いにあります。
型にはまれば筋肉の硬化した鎧に苦しみます。


日常のなかにも非日常があるはずです。
子供時分がそうであったように。
たとえば自分の開いている感覚器官をもっとフル活用させます。
日常の中にある非日常を見つけ、
驚きと安らぎと発見を繰り返す。
自分を型にはめたり決めつけて重荷を背負うことを辞めます。
普段何気なく見過ごしていたものを、
どきどきしながら見つめたり感じてみる。


私ならば子供のときの線路脇の土手にいた感覚を呼び覚まします。
目に映るものすべてに精気を取り戻せればOKです。


ここ数日、夢のメッセージが繰り返し流れてきます。
『あのときの感覚を呼び覚ませ』という声が聞こえてきます。
今の自分にはそれが必要なのでしょう。


子供の時分と外界が変わった以上に、
内界が変わったように感じています。
昔経験したことを少しでも取り戻す。
懐かしい非日常的な感覚の旅ですね。


みなさんも、ぜひ。^^1