不快ゾーンをかいくぐるから成長できる。


人は快を求めるため、
自ら進んで不快ゾーンへ身を置こうとはしない。


借金や無一文になるリスクがあったり、
肉体的な過労や痛み、
精神的な不安や苦痛を伴えばやりたくない。
だって病気になったり人に馬鹿にされたり。
そんな人生を送りたくはないのです。


それは自分の成長がかかっているとわかっていてもしづらいものなんです。


ですが自分が心底やりたいことに賭けるとき、
すべて快適ゾーンであり続けることは難しい。


自ら進んで不快ゾーンへ身を置く道を選べばいい。
だって自分がやりたいことをやるには、
そうせざる得ないからがんばるしかない。
そんな気持ちで不快ゾーンに足を突っ込んでいく。
そうすれば厳しさに苦闘しながら鍛えられていく。
そこで歯を食いしばればいい。


だから意外に成長することはカンタンです。
避けては通れない道があればそこを通ればいい。


ただ単純にストイックであればいいというものでもない。
自分を破壊することが修行なのではない。


少し脱線するが、
今日洗足図書館に出かけた。
この図書館には決まって同じ椅子に腰掛ける男性がいる。
新聞を読んだり本を読んだり寝ていたり。
いつもいる。


ときどきその男性は自分の前を通る人に
『馬鹿やろうめが、このやろうめが』と、
つぶやくように鋭い視線を投げかけながらにらんでくる。


そして今日私がその男性の前を通ったときは、
『馬鹿やろうめが、この若造めが』といっていた。


私が若かったときならば内心では『なにぃ〜っ』と怒りがこみ上げただろう。
それでは相手のペースに乗って巻き込まれてしまうわけだ。


だが今は別段怒りはない。
心の中で『この男性になだれのようによきことが起こりますように』。
そう念じて平静としている。
心の波風は立つことはない。


この『なだれのように〜』という言葉は
斉藤ひとりさんのCDを聞いていて印象に残った言葉です。
反射的にこの言葉が相手の言葉や態度をかき消して包む。
以前私が他の人にしてしまった原因により、
その結果この人がこんなことを言っているのかもしれない。
そしてこの男性に『なだれのように〜』と祈ることで、
すっ〜と厄が落ちていくように感じる。


だから内心にこりとしたいところだが、
周りに人がいる手前平然としていた。
そんな感じ。
かなり客観的にみると変なやつだが、
このときの『なだれのように〜』という言葉を、
自分に対しても使うようにしている。
『鈴木政春になだれのように〜』という感じです。


つまり不快ゾーンに行くのは
成長してよりなだれのようなよきことが起きることを信じているから。
そう祈っているからなのです。


不快ゾーンでは安全地帯にいて余裕があるわけではない。
取組み姿勢も実質主義だし生き残るためのバランス力を重視する。
「ゆでがえる」ことがない。
結局は因果律の関係で、
よい種を蒔けばよい実が成る。
そのような話だと思う。


ちなみに人に裏切られたり冷たくされたりの対人関係のトラブルが起きたとき。
以前は私は本当によく引きづられていた。
そうして引きづられると気がそちらに持っていかれて、
気をもんでイライラした。
そうして体の筋肉が硬くなった。


だが今は『なだれのように〜』というようになったおかげで、
ちょっとしたトラブルも怖くなくなりました。
瞬時に人を悪く思って自分の体内毒素を生成するようなことがなくなりました。
体内毒素とは強烈に体の筋肉を硬化萎縮させるノルアドレナリンなど。
これが幾度も体に過剰に出るようになると精神が誰でも不安定になる。
逆に『なだれのように〜』と祈らせていただくことで、
心が落ち着き体がゆるみだす。
筋肉がゆるみだす。


相手はちょっとしたケンカごしで、
小さないさかいが起こるものと思ったかも。
でも相手は身を固めるどころかゆるゆるになる。
そのゆるゆるな動きは高貴な動きに通じる。
太極拳の満練でのゆっくりした動きには目を奪われる。
そしてあまりかかって行きたくなくなるものなのです。
逆に筋肉が固まって機械的で硬い動きのときは、
容易にその角ばった動きの通り両者がその各自の角のとげを折り合うように
ぶつけ合いたくなってくるのです。


高貴な動きか角のある動きかでずいぶん違うでしょ?
本当にこのような差が出てしまうことってあるんです。


不思議なんですけど、
こういうことってあるようなのです。
考え方の違いでずいぶん生き易くなる。
そんなことを冷静に実感するこの頃です。


蛇足が長くなりました。
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