野生動物たちは、
自らの代々受け継いだ合理的身体操作の辞典を持っています。
昆虫の蜘蛛は、親兄弟に習うことなく、
見事な蜘蛛の巣をつくることができる。
考えぬいた末の『思考』で動く領域ではない。
それは思考から動きを操作する以上の存在が働いている。
合理的に体の作りを活かした『本能』が作用しています。
私どもも同様です。
本能にもとづく動作が思考を通さずになされようとする。
そのときの動きを体験していただけたならば、
すがすがしく、ゆかいで、そして童心に帰った楽しさが
体の隅々まで感じられていくのです。
タフで疲れにくく若々しい状態です。
骨組みで骨格構造を最大強化で抗重力筋と協調して身体を支えてくれる。
傷つきやすく疲労し、
形態が变化が激しく固着もしやすい筋肉にかかる負担を軽減し守る。
ささいなひとつの動作をするときにも、
体がウエイトを感じつつ、
バランスを保ちながら筋肉同士の連関をもたせたり、
筋肉や腱や骨等を分業制で活用してそれぞれの力を活かそうとする。
体が緩んでくると、
癖のない動きや姿勢をしたくなる。
そちらへスムースな移行が進めば、
きっと笑顔の魔法がかかっている!
ですがそこには本能から生じたわけではない
身体操作法の存在を認識しなければならない。
身体操作の誤用と闘いを挑むのではなくて、
眠っていた本能が今までの誤用を気づかせてくれる作用をしてくれるから、
その導きを得て急ぎすぎずに自分の身体を観察していくことです。
私たちの身体操作は、
幼少期にまじめに観察した親や兄弟の身体操作をまねていくもの。
そこで生じた得られたものが体の操作方法の誤用です。
幼少期にまじめに観察した対象者の選択が、
もし次のような状況だったらどうでしょう。
たとえば、、、
身体操作方法をサンプリングした対象者が、
筋肉の分業制がかかれた本能から遠のいて、
一部の筋肉ばかりに仕事をさせてしまうと、
過剰に使い過ぎられた筋肉が過労しすぎて
癒着が進んでいくことになるでしょう。
それだけではなく、
一部の筋肉が働くということは、
その他の働かないなまけた筋肉がでてくる。
なまけた筋肉は運動神経が行き届かなくて、
操作感が鈍っていくから、
徐々によけいに使えなくなっていくだろう。
というような負担感が日頃から感じられる。
そのような状態の人を幼少期にまじめにサンプリング。
そのときには幼少期ですからどんな人をサンプリングすればいいかなど、
つゆとも考えておこなったものではないのだろう。
人間関係上近しい人をサンプリングするかもしれない。
ただ不思議と動き方に違和感があるようなものを捉え、
目が惹かれてまねてしまうケースも多いようだ。
そのような後天的な身体操作法を得て強化教練。
それも物心がつかないうちに忍び込まされます。
だからこそ「 これでいい! ^-^ 」という、
本能の部分を覆い隠す『思い込み』が強烈です。
そのような場合以外にも、
右足を怪我をしたら怪我をしない側の左足に負担をかけたほうが痛くないことを学び、
後に右足が治癒したのだが左足に負担をかけた歩き方をすると痛みがなくて快適だという印象が続く場合も。
怪我をしたときに右足を使ったら、
強烈な痛みを感じてそこを使う恐怖心という感情を刷り込んだことによります。
さまざまな優れた本能的な動き方を二の次にしてしまう状態から、
体が芯にまで緩みだしてくると、
むっくりと本能的な動き方がでてくる。
それは昨日、今日していた体の操作方法のままでいると、
違和感を感じ始める、というものだ。
その違和感とは、後天的に付帯させた体をちょっと窮屈に矯正した動きを打破させる勢力が押し寄せる。
理想的な身体への知恵があれば、
先天的な本能に基づく体の使い方の優れた点が熟知されていて、
それに加え後天的に身につけたものについて認知度が高ければ。
後天的に得た動き方にブレーキをかけるために、
後天的な動き方をしたときに痛みやさまざまなパターン等の違和感を与えていく。
それを『改善の種を撒いている』とみて、
恐怖感を捨てて注意深く自己観察をする。
たとえばアレクサンダー・テクニークの創始者のアレクサンダーならば、
鏡に自分の動作する姿を映して、そこで何が起こるのかを観察し続けた。
体の内部感覚を見つめるのもいいだろう。
だが観察の視点を多く取り入れてそれぞれの役割をみて採用すべきだ。
視覚的構造化された映像や内部感覚などからの訴えからみても
後天的に得た体の操作時の緊張グセ誤用をあぶり出してやめる。
それだけで、いい。
観察して気づきを得て、
後天的に得た動きを消していく過程で、
本能に基づく動きへと近づいていった。
体が柔らかくなってきたが、
どうも思ったほどスカッとした感じがしてこないとき。
自身の状態を見ることだ。
よく、観察をすることだ。
自信を持って、そうして欲しい。
自分を観察しつくさずに思考のみの視点を強調し過ぎると、
変化が抑制されて、後天的に得た動きの誤用に流されます。
たとえば体の操作法についての本を興味を持ってみた。
多くの本を読んでみた。
だが、どんなに多くの本を読んでみても、
自分自身に心底マッチしきったしっくり感がこない。
参考にはなるがほんの一部分だけだし、
それも若干しっくりこないか心や記憶に刺さって行動が変わるまではいかない。
あなたの問題は個別具体的なユニークな問題です。
あなたのことを熟知して何が必要かを提供したものではないのです。
だから参考になる部分も一部に留まるし、
参考にならない部分が多くて気が散るし。
それも、、、
「自分は何が必要だと知り、
そうするためにはどういう課題があるか?」という
世界に一人しかいない「あなた」だけにマッチしたものでなければ使い勝手が悪い。
自分の内側にある生命力を信じ、
自分の人生に寄与してくれる財産を先祖代々受け継がせてくれている。
私には、つぎのように思えてならない。
あなたや私の過酷な環境で生き抜いた努力の結晶を先祖から脈々と受け継いだ身体操作法。
今は後天的に得た身体操作で覆い隠された部分もあると思います。
それもかなり強烈な身体操作の誤用が含まれてきているようです。
そんななかではありますが、
施術をするものの「悟る = 差を取る」というヴィジョンのひとつの具体化として。。。
まさに
その遺伝子に書かれた強力な知恵という生命力が、
私たちをそちらの世界に移行させるような援護者として成長させ、
そして後人として続く者達に受け継いでもらえるようなことです。
そのように走る主体は「あなた」です。
そして自分自身の全責任を負うのはもちろんあなたですから。
ささやかですが協力者として私もできるアドバイスをさせていただきます。
ただそれは、一日にしてことがなることと思わない人にしかできません。
大量の本を一冊ずつ、必要な本と売りに出す本を分けるような感じの、
「この本は自分が持っているよりも、必要な人の手元に!」とか
「これは、絶対に手放せない一冊なのよ!」とか、、、
自分が前進する際に感情がどう動くか問いかけることから始めるのにも似ていますね。
仕分けをするときの基準なども徐々に明確化してきます。
するとどうやって分ければいいのかノウハウもでてくる。
人は作業しつつ工夫して成長する知恵者なのですから。
ただ一気にたくさんやろうとすれば、判断も雑になり、
ひっちゃかめっちゃかな後悔が残る選別になります。
だから
あえて一度に取り組むものを細かく分けて制限すれば、
精度のいい前進ができるようになっていくでしょう。
本を整理することも大事ですが
そうすることで何をつかめたか、
というところも気に入ったなにかが芽生えてくるかも。。。
話を元に戻しますと。。。 ^-^
後天的に得た身体操作の誤用をみつけてやめるにも、
このような例えにも似た、地道さで小さく小分けし、
自分の生活上、うまく取り組めるペースを見つける。
私は、これが大人の身体操作スキルアップには必須。
そのように考えています。
手短く言えば、焦らず飽きずに程々に。
人間って、取り組み方に無理がなくて、
やってみてやり方の要領がわかって来て楽しくなってきたとき。
そのときにしか「どっさり」とした課題を抱えるべきではない。
ちょっとやってみてできてみて。
その達成感を得ることの繰り返しから、
自分にとってフィットするものならば習慣化できるでしょう。
そして自分はそれが得意だと実感して浸透してきたときには
「どっさり」な課題を見たら、不敵な笑みを浮かべるほどに
闘志がわいてくるようになるんでしょう。
先天的な身体操作を発掘するために
後天的に得た体の使い方を修正する取り組みから得られた成果の実感は。
わたしのような子供の時分に体力も運動神経もなく、(←これは本当です)
体が思うように動かすことができなかったものでも、
じっくりと時間をかけてあきらめなずに修正に次ぐ修正を習慣化すると、
自分でも変われるんだなというありがたい気づきです。
それと同様に、私でも変われたのならば、
だれでも先天的な身体操作に移行できる。
そのようなありがたい門戸は開かれているという信念が持てた。
これは大きなことですね。
ただ、施術をするだけ、体の操作を伝えるだけ、では、
人は、思うように自分の根っ子になっている後天的に得た不具合と正面切っての対峙はしてくれない。
私も、今は多少は自身の身体操作の不具合を意図して見つけパターンの変更をすることに喜びを得ていますが、
以前は、誰よりも自己観察をして恥をかくことが苦手で避け続けたものでした。。。
そのような人間の特性があるところも、気づいています。
それでも、無理せず亀の歩みでいいと、言い聞かせながら、
自分の意識を大切な先天的な知恵の発動に向け続けること。
施術と向き合うという方法で生きる私らしい「悟り方」のように思えてなりません。