突きつけられた成長因子

お客様とお話をしていて。
最近の若い人に気になる特徴があると言われました。

ファジーなアイデアを受け入れない。
ファジーな価値観といっても良いのかもしれない。

テストの解答の三択のように、
どれかひとつ正解があるはず。
正解がないような設問自体が愚問だ。
そう考える傾向があるようなのです。

自分なりの考え方として理解する過程で、
人は自分の意見や見解を持つ。
つまり考えはきっちりとぎちぎちに定められたものばかりではない。
自分の考えや今後の研究の過程で「そうだといえる」が「そうだともいいづらい」。
そんなもののオンパレード。
だからファジーなアイデア自体には自分の考えを書き込める余白がある。
その余白ページが常に個人に与えられている。
誰にでも与えられているわけ。
だから一刀両断にグレーゾーンを含まないような言い方をすることは、
とてもはばかれてしまうこともある。
それぞれが自分の考えをその余白ページに書き込めばいい。

それは自分の答えを相手に押し着せることをしないで、
相手の本来の考え方や創造性を尊重しているからできること。

そういったものなのだ。

だが短絡的に答えだけを教えてもらおうとする。
つまりファジーなところまで話をしようとすると、
回りくどい話をされた感じをもってしまうらしい。

『で、結局どういうことがいいたいの?』
と答えだけを聞き出そうとする。
自分が期待している端的な解答が与えられないとなれば、
不信感さえ抱かれかねない。
聞く耳を持てば相手の話の中には
どのように考えているかのキーワードがちりばめられている。
それを楽しく拝聴するだけでいい。
あとは自信を持って自分の頭で考え解釈すればいい。

昔、養老先生が大学で講義をしていたシーンをテレビで見たことがある。
講義が終わり熱心な学生が養老先生へ質問をしていた。
『私は先生のあいまいな解釈を聞きたくはない』
そんなことをずばっといっていた女子学生。
さすがの養老先生も顔つきが変わっていた。
そんなシーンが思い出される。


したり顔の先生がもっともらしいことを
生徒たちの前で講義をすればどうなるだろう。
面倒な(?)自分の頭で考えて消化する過程がない。
すぐに答えがもらえる。
もっともその答えとは、
独断的見解の押し付け。
そんなものであるのに、
気づかずに盲目に従う。

コントロールされやすい、
扱いやすい人ができあがる。。。

お話をいただいたお客様は、
ファジーな考えを受け入れて消化できなければ
その人なりの美学を追求することが出来ないとおっしゃっておられました。

けだし名言です。


たとえ自分が未熟でファジーな教えでは本質がつかめなくてもそれでいい。
安直に答えを覗くのではだめ。
ただ自分の頭で考えること。
その行為を通すことでしか、
物事の本質を見抜く目は養われない。

ボディワーク屋さんのような、
職人芸を基調とした職業ではなおさらです。

人体についての理解、
施術の手技に対しての見解、
体の使い方についての主義。
どれひとつとっても他の先生の意見は参考にはしても鵜呑みにはしない。

協調性のかけらもない感じに聞こえますが、
一匹狼でがんばるならばそんなものです。
すべてが自己責任の世界。

それでいいと思うんです。

ただ自分が時間と労力を惜しまず
投げかけられたファジーな意見を吟味し尽くしたあとに、
共感納得できた先生の存在を感じるとありがたさが違う!

そんなココロの師と出会う喜びを感じられるようがんばりたいですね。