模倣は自殺である。 by デールカーネギー

私が定期的に読ませて頂いているメルマガに、


「人は、頭を使いたくない生き物です」と主張されていて、
えっ、ほんとに?!
と思いました。


だって、パズルとかプログラミングとか様々頭を使って楽しむゲームさえあるわけですから。


ですが、よく考えてみると、考えているときが楽しいというよりも、
正解が出せたときの喜びがあるから、考える苦行に耐えられている。
そんな節もありますね。



だからその考える苦痛を通らないですむようにするため
「何かを決断する時、誰かに決めてもらいたいという人がいるほどです」という。


ガチガチ震えるほど寒い真冬に氷水に足を突っ込む
めちゃめちゃ痛くてつらい氷水に足を突っ込んだ時の脳波と、
考え事をしている時の脳波は酷似しているそうです。


『考えて決断をする作業』は苦痛なのです。


きっとゲームのような楽しさや気軽さがあればいいのです。
ですが深刻であればあるほど、苦痛は大きく跳ね上がる。
脳波はその強烈な緊張に支配されるのです。


そうなると思考を放棄して、
考えないようにそっぽを向く。
または誰かに頼ろうとします。
自分で決め手を持たなければ、
誰かにアドバイスを貰いたい。


そういう生き物だと言います。


私が好きな本に、
デールカーネギーの『道は開ける』があります。
そのなかの章まとめの一節に、つぎの文がある。


『他人のまねをするな。自己を発見して、自己に徹しよう。
なぜなら「嫉妬は無知であり、模倣は自殺である」からだ。』


徹底して自己を磨くことへ誇りを持つことを勧めています。
誰もが放棄してしまうような考える苦痛を乗り越えたとき、
自己を発見することができるようになっていく。
安易に模倣ばかりをして満足していくのはよそう。
自分ができないことをできる人を羨んでいては、
独自の強みを育てられない。


だからこそ考えて考えぬくものは、
最後には独自の境地にたどり着く。
そのような面白みがあります。



半端ないほどの資料を揃えて、
他のもののアイデアと被らないように。
同じことを世に出したら模倣をしたと思われる。
だから結局は、他を学ぶこともなければならぬ。-0-


考える力を養うことでしか、
最終的に生き残るのは難しいのだろう。
そののちの模倣と、
考える手間を惜しんだ模倣は、
一見似ているようでいて、
応用の範囲が段違いだ。


それだけ考えぬくとき、
脳内の新たな神経細胞が作られてゆく。
そこをしっかり育て上げるエクササイズをしたかどうかなのだ。



考える力をつけるとは、
もっとスマートに言えば感性を磨くということだろう。



誰も等しく「考える苦痛を乗り越える力」を持っている。


だから施術に取り組むものも、そう。



人からそっくり教えてもらえて良かったというのも時流だが、
考える手間を惜しまないでバックボーンをしっかりさせます。
そんな手順がなければ、真の自信はいつまでも持てません。




ただしこれが説得する側のプレゼンターになると立場が違う。


考えこませるな。


または考える手間を省いてあげること。
ことさらにまで、
すっとわかりやすいように仕上げよう。


それが基本でしょうから。


立場が違えば、、、というものですね。 ^-^;



私の場合。
意外に考える手間を省いてあげることに慣れていないので、
こんなところでも模範解答の模倣をせずに脳が汗をかけと、
がんばらないといけないんですよね。




模範解答を真似てみても、それを自力で作り出せる力が抜けていれば、
実社会ではなんら役立たない代物にすぎないことも多いのだから。