ある日、ソクラテスのもとに青年がソクラテスの知る知恵をすべて授けて欲しいといいやってきました。
ソクラテスは青年を伴い川べりへ。
二人とも川の水近くの川原に腰掛けて、
ソクラテスは青年に問いました。
「いま君の目には何が映るか?」
青年は「私の目に前には何もありませんが・・・」
それを聴いた瞬間にソクラテスは青年の後頭部を押さえ川の水にジャポンとつけました。
息ができないでじたばたして苦しがり抵抗する青年。
なおもソクラテスはそのまま押さえつけた。
死ぬ一歩手前に手の力を緩め水から引きずり出した。
青年「ご老体、気でもふれたのですか!?いったいなぜこんなことを」
ソクラテス「君の目に映らなかった空気だったが、それを死に物狂いで欲しいと思ったはずだ。
それと同じ強さで知恵を欲しいと切望したときにまたおいで。」
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ソクラテスにとって哲学とは人の生きる道。
ソクラテスをギリシャの町外れで見つけたイオニアの兵士がいた。
朝からソクラテスはそこで立って瞑想している。
好奇心でその前に藁をひいて付き合った。
翌日の朝の陽光がさしたときソクラテスは祈りをささげそこを立ち去りました。
ただひたすら立ち瞑想する老人。
仏教でいう禅定の禅、いわば立禅。
瞑想するうちに彼の体には知恵=ソフィアが充満したといわれます。
手軽に手に入る知識と、ソクラテスが得ようとしていたソフィアは別物。
青年が考えていたのは辞書で調べられる頭でする知識です。
ソクラテスが目指したのは体の内側からふつふつと湧き出る自らの肉体の体験を通したソフィアです。
この二つは一見すると知という関係でつながりそうです。
ですが正面から触手で探ればそこにある深いところで
神につながろうとする行為であるかどうか。
決定的な違いがあるように思います。
自分がこれから学ぼうとしているものが青年が求めた知識かソクラテスが藁にすがってもがき空気を求める気持ちで取り組むソフィアか。
ソクラテスが求めたソフィアは「道」へ通じる深遠さがあります。
どちらに近いだろうか?
これから学ぼうとする学習要項で照らし合わせてみるといいでしょう。
息ができないときに空気を求めるほど欲しいと切望できたとき、
目に見えるモノではない見えない空気のような大切な存在に触れ気づく。
そんな心構えで施術を勉強するならば頭に入る。
難解な学問でさえもそれに触れられた機縁に感謝し、
自分の歩みの力の限り取り組もうとするでしょう。
そのようなとき瞑想中に初めて新たな知恵を得られるものです。