先だってYouTubeを観ていたら、
深い瞑想状態になれば、身体なんてかんたんに治せるのだと言い放っていたヒーラーの方がいて。
そういう奇跡を全否定しようとは思わないが、
肯定したい気にはなれない自分がいました。
YouTubeでの語られた主張を映像で断片的に観ただけでは、
そのものの背景のすべてがわかったわけではないのはわかる。
でも・・・その映像に映る人物の顔のパーツを読み、
どういう骨相かを観察して、そこにずいぶん内在するゆがみやひずみが見て取れてしまうと。
「この人は、誰をどこに連れていこうとしてるんだろうか」と不安に駆られたのです。
それはどういったことか。
少林寺の僧を例に挙げて、
私なりの説明を付けさせてください。
少林寺で体を鍛える僧侶には、
木にドリルで穴をあけたような跡を指先のみで与えることができる者がいます。
ただし、この難行は通常の状態でおこなうことは不可能です。
深い瞑想の状態にはいってのみおこなうことができるようです。
絶対無敵!誰にも倒せない少林寺の僧侶たち
(上記写真の少林寺僧の修行風景が映る、もととなったYouTube映像)
私たち施術者も、
すでにその施術技術の知識や経験を十分に積んで習得した後に、
それをお客様に対し施すとき。
深い瞑想状態にはいったといえる意識の安定し、
時間も空間も自他の隔たりも薄らいだときになす手技は、
あとになって振り返ればよくこれができたなと思えることがあります。
ただ、、、深い瞑想状態にならないと施術ができるわけではない。
深い瞑想状態がデフォルトとしたとき、施術の非成立が出てくるリスクが生まれるのです。
深い瞑想状態といった気づきの境地にまでいたらなくても、
通常の施術で観察眼を磨いてみるべき個所を診て、
それに基づいて手を出した手技の繰り返しには。
そこに職人としてのさらなる観察による気づきから起こる工夫が加算されます。
そうやって現状を広く深く『わかる・理解する』ことができるようになれれば、
他には追随が難しい積み重なる技術へと展開されていきます。
そうなると通常のβ波という瞑想状態じゃない脳の状態でも、
高い施術技術の提供が再現可能です。
人は誰しも、その日の体調やメンタルでの好不調もあります。
体長不良やメンタル不良で深い瞑想状態にはいるのはムリです。
自らの腹のくだしに意識が奪われたり、失恋中真っただ中では平静にいるのはできません。
がんとして自分は大丈夫だといわれる者がいたとしても、
ちょっと筋反射テストをすれば、確実に筋力の弱化があらわれている。
それが人間なんですね。
それでもそこそこの瞑想状態にははいることはできるもので、
そこに高い既得技術力を組み合わせて運営していく施術院が現実的だと思います。
そして今日は最高の施術ができたと実感する機会があるとすれば、
高い既得技術力を、深い瞑想状態で存分にいかせたときなのです。
それにほんとうに神様でもないかぎり、
深い瞑想状態にはいったとしても誰しもが少林寺の修行僧のように指を鍛えており木に深々と穴をあけられないのと同様に、
深い瞑想状態にはいったら、どんな奇跡が起こるというのは期待してはいけないのです。
おそらく通常の意識状態よりかは多くの的確な仕事をこなせるキャパは上がっています。
それは緊張した心身の状態よりも、瞑想状態のほうが感受性豊かに観察力を保ちますし、
右脳のもつ今までその人が体験してきた、いま、この事案で応用が利く事項を直感的に思い出すこともできるからです。
そうであったとしても、少林寺の修行僧がした指の鍛えをせずに木に穴を掘ろうとしても開かないか、指の骨が骨折するものです。
自己を変えるには瞑想の主に右脳の働きに加えて、下地にフィジカルなポテンシャルアップや、左脳に十分な知恵や経験がはいっていること。
そうした場合に右脳と左脳をつなぐ脳幹がブロードバンド化して情報のやり取りを密にし始めることで、
奇跡のようなことをかなえてくれるのでしょう。
そこが落としどころだと考えて修行する少林寺僧のような人は、
たゆまぬ修行を日々こなすことに充実を感じ、ゆるぎない進化を続けるでしょう。
なかには超能力的な力を誇る方もいるようです。
なぜその変化を生じさせたかがわからないで起こしたものの波に特有の理由が腑に落ちなさがでてきます。
そういうときは、一手先は読めている手が出せていることもあるのですが、
三手先や五手先を読んでの布石は打ててないことが、後にわかってきます。
ふつう、施術者は将棋や囲碁のプロと同じように、総合して盤の上の戦況を観て、どう自分が動けば相手が動くかを想定しているのです。
それと同様に施術でものを観ています。
だから、大きな身体内部の変化を作り出しても、収まりどころを見出してまとめあげた状態で施術を終えることができるのです。