昨日のこと。
ワーク後に立ち方をチェックしたときの母の言葉。
「体が大変だったときには今のように立つことはできなかった」
「よくなってからでないと難しい」
そのとおりですが。。。
ですが大切なものを学ぼうとするものは、
甘えた言葉は許されない。
自分の責任で学ぶ。
他のものに頼る気持ちはない。
だから本来自分で考えてつかむものを、
他のものに教えてもらったとき、
ありがたいという気持ちがわく。
だが核心は自分で勝ち得るもの。
あくまでも『自分の問題』。
そう考えて取り組むから、
少々のことではへこたれない。
愚痴るなどはもってのほかだ。
眉間にしわを寄せてにらみ返せるし、
歯を食いしばれる。
だからより高く取り組める。
この姿勢は僕にとって、
技術力以上に尊いもの。
これこそ自分の生命線。
そういう思いがある。
これが私自身の取り組み姿勢です。
自分がそうだから、
「身内にもそうあってほしい」と
期待をかけるところがあるようだ。
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母の言葉の意味は解る。
たとえば腰仙関節・股関節・仙腸関節が解放されなければ、
立つことや歩くことに必ず支障がでる。
構造的に立ちにくいし歩きにくい。
構造的に理想状態に近づければその呪縛から離れていく。
母の言葉には半分はそういう事実確認の話。
もう半分は「解いてくれなかったから立てなくて当然」、
そういう感想だ。
ですが、
私だってはじめからこのような知識を持ちはしない。
母と同じように立ちにくく歩きにくい過去があった。
幾度も迷宮に入り光明を見つけようと必死にもがいた。
そしてそこから這い上がってきた。
母には
幾分かの立つための自主性を自らに課してほしかった。
そう期待することは間違ったことであろうか?
自主性が芽生えてからワークをしたかった。
その自主性を引き出すためにフェルデンクライスビデオを買ってきたり、
図書館でよい本を見つけては読むように勧めたり手は尽くしたのだが。
私が過去に母に行ったワークの量をセーブしすぎたのだろう。
母の自主性の芽生えを待ったことが今回のことの一端になった。
結果的に母は体が追い込まれることで
僕のいうことに耳を始めて傾け始めた。
母にとって追い込まれるという苦痛が、
ターニングポイントになったのだろう。
ただ喉もと過ぎれば・・・。
まだまだ安心できない。