アレルギーというもの


この文章を読んで、げげっと気分が悪くなる人がいるかも知れませんが、
最初に謝っておきます。


夏はゴキブリが発生しやすい季節です。


家の中に大きなゴキブリがいると、
寝静まるときにガサゴソしてそうで心静かにしていられませんよね。
それに不衛生であると子供の頃から教え込まれているから。
健康面が危険な状態に落とし込まれるという緊張感もある。
一匹のゴキブリがいることを確認できれば、
その背後には数十匹からの仲間がいるというし。^-^;



だからゴキブリがでたりすると、
仕留めようということになっていたのが日頃でした。
ただ仕留めようとしても相手はすばしっこくて物陰にすぐ隠れる。
そうなると当分出てきません。


今年の夏は、夜に神社で気功のような気を練る練習をしていまして。
そのときに神社の社殿にお参りをするのです。
すると大黒様を祀った社殿の脇に、
猫おばさんが乾燥したねこご飯を置いておく。
それに猫が群がっているのですが、
猫が食べ終わったあとにゴキブリがちらほら。
残り物をいただこうとして集まってくるのです。


本殿の方へと足を延ばすゴキブリがいたりと、
ちょっと私的には困りものだなと思っていた。
しっしっ!と追い立てていたが、
そんなことは効きはしない。


そうこうして夏の終わり。
多くのセミが路上に転がりその一生を終えていた。
威勢の良いセミの声が聞こえなくなって寂しいが。
そしてコガネムシやカナブンも次に消えていった。


夏の虫たちが栄えていた神社は、
その息吹を潜めてしまった。


ただそのような静寂の中、
たくましくもゴキブリが
しっかりコオロギに混じって生きている。


一年を通して生き続けている生命力の強さに畏敬の念を感じた。
「こいつらすごいよなぁ・・・」
「がんばって生き続けてるんだ」


そして
「古代から今まで形を変えずに生き続けているんだ」
とゴキブリの偉大な点について目が向くようになってきた。


そうこうしているうちに
大黒様の社殿脇のゴキブリたちを祓い立てようとはしなくなっていた。
それもまた自然界の営みの一つ。


先だって、
家にゴキブリが出た。
そのときに私自身が驚いたことがあります。


いつもならば、
内心、「きゃぁ〜」という感じです。
体は仕留めなければという緊張と殺気。
それに恐怖心。


ですがこのたびは違っていました。
冷静に、「すまないが出てってくれるとうれしいんだけど」
そう思ってゴキブリが止まっている場所に近づいてみた。
なんら緊張してない状態です。


するとそのゴキブリが逃げようとしなかった。
私から殺気が感じ取れなかったからだろうか。
いつもならば一目散に逃げ回るはずなのに。
とても不思議なことが起きていた。


ちり紙で包んで表に歩いていき
もうここまで離れればうちに返ってこないだろうというころあいでリリース。


そんなことをしている自分に驚きです。


自分の内側で起こっていた以前のゴキブリに対しての反応が、
実は精神的解釈から来るアレルギーというものだったんだな。
そうだと痛感しました。


今はそのようなアレルギー反応が、
以前に比較すれば格段に減少した。


ゴキブリを見た時のマイナス印象ばかりがイメージされて
体がすくんでしまった状態にならなくなったぶん、
世の中の苦手のひとつが消えたようなものだ。


これは意外に大きなことといえるだろう。


大抵のものは、
見るものの視点によりマイナス面とプラス面の陰陽ふたつがある。
強烈なマイナス面の印象があったとしても
その裏にはプラス面もある。
そのようなセットとして物事を観たり感じたり出来れば、
苦手なものとしてアレルギー反応を起こすものが減ってくるのだろう。


アレルギー反応として感じられるもののなかには、
自分が下した狭い視野の解釈を拡大すれば
アレルギー反応が消えることがある。


そんなことを教えてくれた。