知り合いのワーカーさんのお話。
気功をなされているとのこと。
そしてその気功を教えている先生のお話を聞かせてくれました。
大先生という方は、
気功を究めるために、
『徳を積みなさい』と繰り返し説かれるそうです。
いったいどのように徳を積めばよいのか。
道徳的心得、非暴力、正直、不盗、禁欲などでしょうか。
ただ徳を積まなければならないと教えられて、
その通りにしようと頑張ってしまうと非常に型にはめられて肩が凝る。
だからその大先生のお弟子さんは、
ひとまずは徳を積む修行を念頭から外しました。
あまり大先生としては感心できないお弟子さんですよね。
ただお弟子さん、
しっかりと気功の修練を積んでいきました。
体も以前は硬い筋肉があったそうですが、
今は驚くべき柔らかさに至ったそうです。
すると気付いたら自然に人との輪を大切に感じるようになった。
そしてひとりでに大先生が徳を積むようにといったこと通りになっていた。
徳を積まなければならないと信念を持って頑張るのではありません。
正しく心身が磨かれていくと、
徳を積むようなことをすることをしたくなる。
そうすることがその人にとっての自然の行い。
戒律として徳を積みなさいと迫る必要もない。
心身が磨かれた結果が徳を積む種になるのです。
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お話を聞いて大先生に従うことも大切ですが、
お弟子さんのほうが自然な流れを感じます。
『後で気付いたら徳を積んでいたんですよ。
そのときに<<徳の意味>>が納得できました』
そうおっしゃられたそうです。
なんという素敵な気づきでしょう!
徳は質のよい精神修養をかねた修行をすることで、
無理なく『身につくもの』なのかもしれませんね。
もちろん大先生の再三にわたるアドバイス効果も、
功を奏しているはずです。
大先生と呼ばれる方も、
貴重な教えの継承者ですからただ者ではないです。
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戒律と呼ばれる数々の規定。
それは人を律し縛りつけるものではない。
先人が修行の上で得られた心境をうたうメッセージ。
そう考えるほうが僕にはありがたい指針のように感じてなりません。