能楽師が『能面』というものをかぶり舞を披露する。
以前『健康になる整体武術』という本のなかに、
能面に目の穴がないものがあると読みました。
つまり能を舞うときには目が見えない。
顔の前側は能面でふさがれているため、
頭の横や後ろの空間感覚しか把握できない。
だがこのような目が見えない状態で舞うと、
体幹が伸び姿勢が整いだし、
舞が活きてくるという。
図書館で能面に興味を持って調べてみた。
目を塞いだ能面についての記述が書かれている資料が見当たらなかったが、
このときの能楽師の身体のなかで起きた感覚を想像するのは面白いだろう。
一定の広さを持つ舞台。
端から端まで距離は決まっている。
その舞台の中央にいるつもりでも、
身体の軸がずれているような能楽師であればいつしか舞台端にずれだす。
能楽師の脚が短い方へとずれていく。
目のない世界で空間把握能力のみを頼りに舞うならば、
皮膚感覚で外気の動きを感じ取る。
かすかな風の流れを察知する。
音情報にも敏感になる。
音の鳴り響きを耳や皮膚で感じ取り前後左右の距離を計る。
日常使っている目が使えなくなる。
目ももともとは光が当たるとその光子があることを感じ取るような、
原始的な器官でしかなかった。
アメーバーが外膜を触手のように伸ばし、
手さぐりするような原始的感覚に近づく。
アメーバーにしてみれば外膜が「手」であり「目」であり「保護膜」である。
私たちの細胞一つ一つはこの外膜が未だに存在している。
皮膚の一部の器官が変化して目に変わる。
目の閉じた能面をかぶる能楽師は、
自分の皮膚感覚をアメーバーのように感知のため使う。
この場合の皮膚感覚は原始的だ。
それゆえ複雑になり過ぎた精密機械の誤作動とは無縁。
目を使うと目を開いてその映像を脳で解析して修正する。
その修正で多くのつじつま合わせを気づかないうちにおこなう。
自分の目の軸がずれていても脳で補正するから気づかない。
それが目と脳で補正することを選ばない原始的な感覚に頼ると、
かえって精度の高い身体バランスの修正ができてしまう。
そんなことが本当に起きてしまうのです。
それが舞に現れる。
能は神社へ奉納のため舞われることがある。
神仏と一体化した存在となり能楽師が舞う。
筋膜リリースが得意なワーカーは、
身体の高度に発達した様々な器官も、
「外膜が進化したもの」がほとんどだという事実を知っている。
アメーバーが持つような手や目や保護膜などの能力が、
本来私たちの細胞一つ一つにはあるそうだ。
原始的な筋膜感覚がそれをよく現すという。
だが高度に発達した器官のお蔭で
筋膜感覚が失われた影響は大きい。
筋膜の健康具合に生命力の強さは比例する。
それはアメーバーの外膜が正常機能するかどうかと同値の問題だからだ。
神社の神聖な地。
気の鎮められた幽玄な空間で、
目の塞がれた能面をかぶり舞う。
わざわざ目を封じることで
原始的なアメーバーが持つ外膜能力を身体に取り戻せるのかもしれない。
そのように感じさせる不思議な雰囲気を能楽師は放つのではないだろうか。
そんな勝手な空想をして楽しんでいます。